今回は鎌倉市や藤沢市、横浜市栄区にとっても重要な歴史上の人物「大庭氏」について、詳しく整理してみることにしました。
大庭氏(桓武平氏良文旒)
大庭御厨範囲(推定)
大庭御厨の範囲は推定になりますが、藤沢市と茅ケ崎市にまたがった、山側と東側をちょっと省いた範囲と言ったところでしょうか。
その中には、後述する大庭兄弟が引き継いだ大庭郷、俣野郷、懐島郷も入ってきます。

御厨とは、「御(神の)」「厨(台所)」という意味で、伊勢神宮に神饌を貢進する所領のことです。
桓武平氏良文流の系図
系図については諸説ありますが、村岡五郎良文から主に大庭・長尾に続く系図を下記に記載しています。
三浦、梶原も同じ流れから生まれた一族ですね。
(村岡五郎)平良文(886-)
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忠光(932-)
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忠通(980-)
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鎌倉章名(1015-) 三浦為通 → 三浦一族の祖
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鎌倉景村(1040-) 鎌倉景通(1035-)
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鎌倉景明(1089-) 梶原景久 → 梶原氏の祖
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大庭景宗(1115-) 長尾景弘
大庭氏と長尾氏は、源平合戦で有名な大庭兄弟「景義・景親」からみて、従兄弟の関係になります。下記で詳しく見ていきたいと思います。
大庭4兄弟の関係とその系図
大庭景宗(1115-)
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(懐島)景義(1138-) 景親(1140-) (豊田)景俊(1145-) (俣野)景久(1147-)
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景兼
大庭景宗には、4人の兄弟が居たことが分かっています。
三男の豊田景俊は史料に名前が残っている程度で詳しい活躍などは分かっていないようです。
保元の乱(1156)では、景義・景親兄弟揃って、源義朝側に従軍。
平治の乱で平家の世になってからは、景親は平家側へ着いたようです。大庭御厨を守る意図もあったのでしょう。
平家に対して以仁王が乱を起こした時には、大庭景親が活躍して平清盛からお褒めの言葉を貰っているシーンもしっかりと描かれています。
石橋山の合戦(1180)では、兄・景義が源氏側、弟・景親&景久が平家側と袂を分かちます。
ちなみに、次男の景親が大庭を継いだのは、保元の乱で兄・景義が負傷し大庭御厨の懐島郷に隠遁したからです。
従兄弟長尾氏の関係とその系図
鎌倉景明(1089-)
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大庭景宗(1115-) 長尾景弘
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景義 景親 景久 定景 為宗
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景兼 景茂
石橋山の合戦では、大庭景親(平家軍総大将)・俣野景久・長尾定景は平家軍として戦っていることが分かっています。
岡崎義実の子「佐奈田与一義忠」が平家側に討たれたと伝わっていますが、源平盛衰記では佐奈田与一が俣野五郎景久と一騎打ちをしていたところ、長尾定景が佐奈田与一を討ったとあります。
俣野、長尾と違う名字ですが、従兄弟という強い血縁関係がある一族同士だったことが分かります。
ちなみに、もっと遡れば、岡崎・佐奈田親子の三浦一族との関係があるのですが、身近じゃないのでしょうね。
長尾兄弟は、源頼朝の鎌倉入りで御家人として加わりました。が、俣野氏は生涯を平家に尽くしたようです。