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大輪田泊(おおわだのとまり)
神戸福原(福原京)に別邸を構えた平清盛。
奈良時代より「大輪田泊」と呼ばれ天然の良港として親しまれた場所を、大修築工事を行い日宋貿易の拠点とし、平家の財力の拠り所になりました。
承安3(1173)年
平清盛、私財を投じて経が島を築く
治承4(1180)年
平清盛の奏請(天皇に許しを請う事)により、太政官符(太政官が諸国に命令を下した公文書)を下し、大輪田泊の修築を諸国にお願いする。福原遷都を発表。
その後は「兵庫津」と呼ばれ、勘合貿易(日明貿易)として活躍。
福原京
延暦寺や南都らの僧から遠い地の福原を新しい都にし、大輪田泊での貿易立国を目指した平清盛。
計画では、大輪田泊から朱雀大路を伸ばして八省院(政務の中心地)を建設。その奥に内裏。
しかし、平清盛死去と源氏再興により実現はしなかった。
経ヶ島
平清盛が私財を投じて作った経ヶ島。どこに築かれたのか詳しい場所は分かっていないようです。
経ヶ島を築いた理由は、大輪田泊が東南からの風波をまともにうけて停泊が危険な場所だったため、泊(とまり)の前面に防波堤となる島を築き、船を風から守ろうとしたから。
名前の由来は、暴風雨と大波で難工事だった経ヶ島築造だったものの、人柱を入れることは罪深いと考え、代わりに一切経を書いた石を海に沈めたことから「経の嶋」と名付けられたとか。(平家物語より)
大輪田泊にある源平史跡マップ
能福寺(平清盛公墓所)
▶ 兵庫県神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39|
能福寺の寺領内にあった「八棟寺」に平清盛公の墓所「平相國廟」が造立されたが、平家滅亡と同時にことごとく破壊され、能福寺は跡形もなく燃え尽きた。
その後も廟は再建されることなく、存在すら忘れていたという。


薬仙寺(萱の御所蹟碑|かやのごしょ)
▶ 兵庫県神戸市兵庫区今出在家町4-1-14|
別名「牢(楼)の御所(ろうのごしょ)」。
平清盛が後白河法皇を幽閉した建物。三間四方(約6㎡の大きさ)の粗末な造り。
文覚上人がこの御所に忍び入り平家追討の院宣を賜ったと伝わります。


清盛塚(清盛塚石造十三重塔)
▶ 兵庫県神戸市兵庫区切戸町1-3|
鎌倉幕府第9代執権「北条貞時」の建立と伝わる清盛塚。兵庫住吉神社の境内にあります。
大正時代の道路拡張に伴う移設の際の調査で、墳墓ではないことが確認されたとか。
これで実際の平清盛墓は、上記の「能福寺」が濃厚のようですね。


琵琶塚
現在は清盛塚の隣にある琵琶塚。
琵琶の名手「平経正(平清盛弟の平経盛の長男&平敦盛の兄)」の墓と信じられていたようです。


清盛くん像
▶ 兵庫県神戸市兵庫区中之島2-1|
兵庫運河にかかる橋の上に、デフォルメされた平清盛像があります。
隣には平清盛年表も。
※近くにあるイオンモール神戸南の入口にも設置されています。


清盛橋
▶ 兵庫区芦原通-兵庫区今出在家町間|兵庫運河上の橋
ここ兵庫区の和田岬周辺が平清盛ゆかりの地であることを分からせてくれます。


大輪田橋
▶ 兵庫区芦原通-兵庫区出在家町間|兵庫運河上の橋
大輪田という地名は住居表示には一切残っていないので、大輪田という名前が付いている橋や水門名は貴重ですし、このへんが大輪田だったということを伝えています。

