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臨済宗
鎌倉検定では絶対知っておかなくてはいけない、鎌倉巡りでは知っておくともっと楽しくなる「臨済宗」について、禅僧の側面から調べて纏めてみました。
中国の禅宗5家の一つ
日本の臨済宗は、宋時代の中国に渡って学んだ「栄西(1141-1215)」によって、鎌倉時代の日本につたわりましたが、中国の禅宗には「5家7宗」があり、臨済宗はその一つです。
禅宗五家・・・ 臨済宗、潙仰宗、雲門宗、曹洞宗、法眼宗
五家七宗・・・ 臨済宗(黄龍派←栄西はココ、揚岐派)、上記4宗
臨済宗だけでなく、曹洞宗もその一つなんですね。
臨済宗はさらに、黄龍派と、揚岐派に分かれますが、栄西は黄龍派の教えになります。
ちなみに臨済宗の祖は臨済義玄、黄龍派は黄龍慧南、揚岐派は楊岐方会と、祖の名前を取った名称だということを抑えておくだけで良いと思います。
明菴栄西は黄龍派
黄龍派はあくまで中国臨済宗でのお話。日本の臨済宗の祖はあくまで栄西です。
日本の寺院で臨済宗の開山名を見た時に、中国ではどの宗派で、日本では誰の系統か流れを掴めば面白さが倍増しそうですね!
ちなみに、栄西の弟子には「退耕行勇(1163-1241)」がいます。
栄西以外の多くは揚岐派
鎌倉時代、執権北条氏の帰依を受けて鎌倉に招かれた「蘭渓道隆」をはじめとする禅僧らは、栄西とはことなる揚岐派の教えを汲みます。
そして、揚岐派はさらに分裂していくので、詳しく追っていくと混乱するので程ほどに・・・。
例えば、蘭渓道隆(揚岐-虎丘派)も無学祖元(揚岐-破庵派)も、ちょっとずつ違ってきます。
足利氏の衰退とともに・・・
鎌倉幕府、室町幕府と武家政権との結びつきが強かった臨済宗は、足利氏が没落してくとともに衰退していきました。
お寺でもそうですが、衰退した後に復活した場合にだいたい中興の祖というのが居るのですが、臨済宗でも江戸時代に臨済宗を再建した中興の祖がいます。
それが、白隠慧鶴(1686-1769|はくいん えかく)という人物。臨済宗妙心寺派の出だそうです。
そして現在に至ります。
有名禅僧をグループ化
ざっくりですが、鎌倉五山、京都五山の開山を中心に、分かり易くグループ化してみました。
しかし、色々整理してみると、中国臨済宗での細かい宗派を超えて、師弟関係を結んだりしていますので、あまりグループに固執して考えない方がよさそうです。
明庵栄西グループ
明庵栄西(1141-1215|みょうあん えいさい)
→寿福寺・建仁寺開山
退耕行勇(1163-1241|たいこう ぎょうゆう)
→東勝寺・常楽寺・浄明寺開山)
蘭渓道隆グループ
蘭渓道隆(1213-1278|らんけいどうりゅう)
→建長寺開山、建仁寺・寿福寺・禅興寺[廃寺]住持)
大休正念(1215-1290|だいきゅう しょうねん)
→浄智寺開山、大慶寺開山、禅興寺・建長寺・寿福寺・円覚寺住持
無学祖元グループ
無学祖元(1226-1286|むがく そげん)
→円覚寺開山、建長寺住持)
夢窓疎石(1275-1351|むそう そせき)
→天龍寺、相国寺、等持院、瑞泉寺開山、金閣寺、銀閣寺勧請開山、南禅寺住持)
→足利尊氏の帰依を受ける
無関普門(1212-1292|むかん ふもん)
→南禅寺開山、東福寺3世
円爾(1202-1280|えんに)
→東福寺開山
→退耕行勇に師事
兀庵普寧(1197-1276|ごったん ふねい)
→浄智寺開山、建長寺2世
→先進的で建長寺の僧ともめ事が多く「ごたごた」の語源になったとか。
一山一寧(1247-1317|いっさん いちねい)
→建長寺10世、円覚寺、浄智寺、南禅寺3世
→建長寺総門の扁額「臣福山」は、この人の筆
宗峰妙超(1283-1338|しゅうほうみょうちょう)
→大徳寺開山
関山慧玄(1277-1361|かんざんえげん)
→妙心寺開山、建長寺・大徳寺
清拙正澄(1274-1339|せいせつ しょうちょう)
→浄智寺・円覚寺・建仁寺・南禅寺住持)
→鎌倉の国宝「清拙正澄墨蹟」で有名
京都五山・鎌倉五山マップ
初めは京都五山と鎌倉五山は同じでしたが、京都と鎌倉にわかれて、さらに鎌倉より京都の方が上という風にきまりました。
鎌倉にとっては悔しいですけど、さすがの京都には敵いません・・・。
京都検定本には、臨済宗には14の宗派があって、そのうち京都には7派
建仁寺派、東福寺派、南禅寺派、大徳寺派、妙心寺派、天龍寺派、相国寺派があるようです。
鎌倉では、建長寺派と円覚寺派の2派がありますね!