逆櫓(さかろ)の論争
逆櫓の論争については、平家物語と吾妻鏡の記載内容が異なります。
平家物語は、史実を基にしたフィクションなので、吾妻鏡の方が事実なのでしょう。
平家物語 逆櫓の段
元暦2(1185)年2月
源義経は、平氏を討つ為に京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の屋島を船で急襲しようとした。
義経軍は、舟での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうだろう?」と提案した。
しかし義経は「はじめから退却の事を考えていたのでは何もよい事が無い。船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。
結局逆櫓をつけることをせず、風向きが渡辺から屋島の方向に向かって追風の北東(しかし暴風)だったこともあり、夜に入って義経は出陣しようとした。
折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは二百数艘のうちわずが五艘だったが、義経は勝利をおさめた。
吾妻鏡
文治元(1185)年 2月18日
義経は昨日に、渡辺から渡海しようとしたが、暴風により多くの船が破損したため、船出をしなかった。
義経は
「朝敵の追討使が少しの間でも逗留するのは問題だ。風波の難をかえりみてはならない。」
そこで、丑の刻(午前2時頃)、まず舟五艘が出て、卯の刻(午前6時頃)に阿波国椿浦(徳島県阿南市)に着いた。常ならば三日かかる行程を4時間で進んだことになる。
梶原景時との逆櫓の論争について、吾妻鏡は一言も触れていません。そればかりか、
文治元(1185)年 2月14日
源範頼が周防国(現山口県東南半分)にいた時、頼朝から
「土肥実平と梶原景時と協議して九州の勢力を召しなさい」と命じられていた。
梶原景時は源範頼軍にいて、義経軍には同行していなかったことになります。
2月22日
梶原景時をはじめとする東国の武士たちは、140余艘の船で屋島の磯に到着した。

源義経
源頼朝の異母弟。
一ノ谷の戦いで勝利をおさめたが、頼朝の命に反し、後白河法皇から任官を受けたため、平家追討使の任を解かれて、京都で暇を与えられていた。
梶原景時
源頼朝の腹心で鎌倉殿の13人(十三人の合議制)の一人
源範頼軍が平家追討に手間取ることを知った頼朝は、義経に出陣命令を下し、戦奉行として梶原景時を付けた(平家物語による)
源平屋島古戦場
義経が船で急襲しようとした讃岐屋島。平家方が安徳天皇を奉じて本拠を構えていた。
四国へ無事に渡り終えた義経は、上陸した阿波国から陸路で屋島へ。屋島の戦いが始まった。
逆櫓の松跡(地図)
▶ 大阪府大阪市福島区福島2-2-7|🅿なし
逆櫓の論争が行われた場所は、この松の下付近と伝わっています。
今は、福島の町の中。マンションと歩道の間にヒッソリと説明板と石標が設置されています。
江戸時代には樹齢千年を超える松が生えていたみたいですが、今は枯れてしまって、普通の松の木が植えられています。
