目次
佐竹義政(さたけ よしまさ)
不詳-1180
清和源氏義光流の流れを組む常陸源氏。
保元の乱・平治の乱では、平清盛方に属して戦い、常陸七群を領した。
それ以降、平家方に与し、頼朝挙兵の際には合流しなかった。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、平田広明さんが演じられます
佐竹秀義の簡易年表
東国武士たちが上洛阻止を訴える
富士川の戦いで、平家軍が逃げて背中を見せた時を見逃さず、追討しようとした頼朝。
しかし、自分たちの所領が心配な東国武士たちに、その行動を諫められました。
その理由の一つに、常陸の佐竹氏の動向があります。
治承4(1180)年10月21日
平維盛を追いかけて攻めるため、頼朝は平氏たちに上洛するように命じたが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常たちが諫めて頼朝に訴えた。
「常陸国の佐竹太郎義政と佐竹冠者秀義らが、数百の軍兵を率いて、いまだ服従していません。とくに秀義の父、佐竹四郎隆義は平家に従って在京している。そして東国にもまだまだ反乱者が多くいる。まず、東国を平定してから西国に至るべきかと」
佐竹氏討伐に出陣
鎌倉に戻った頼朝は、のんびりする間もなく、一週間ほどで佐竹氏討伐に向かった。
治承4(1180)年10月27日
佐竹冠者秀義を追討するために、常陸国に向けて出発した。
佐竹義政が誅殺される
上総広常の縁者だった義政は、上総広常の誘いに乗りやってきたところ、広常に殺害された。
騙し打ちのような感じと思われます。
治承4(1180)年11月4日
頼朝軍が常陸国府に到着。宿老たちと計略を話し合い、縁者ということで上総広常を遣わし事情を問うと、兄義政はすぐに参上すると、冠者秀義はすぐに参上できないと常陸国金砂城に立て籠った。
義政が広常の誘いに乗って大矢橋(茨城県石岡市)の辺りに来たところで、頼朝が義政の家人らを外に退け、義政一人を橋の中央に招くと、上総広常に誅殺させた。家人たちは降伏したり逃走した。
その後、頼朝は佐竹冠者秀義の攻撃へと向かいます。
佐竹義政周辺の系図(義光流)
佐竹氏は清和源氏義光流の流れをくみます。
義光流には、鎌倉幕府で活躍した人物が沢山いて大変です・・・。
源頼義
├-----┬
源義家 源義光
| ├-------------┬------------┬
| 源義業(常陸源氏) 源義清 平賀盛義(平賀氏)
| | | |
| 佐竹昌義(佐竹氏) 源清光(甲斐源氏) 平賀義信
| | | |
源義朝 佐竹隆義 武田信義(武田氏) 平賀朝雅
| | |
源頼朝 佐竹義政 一条忠頼(甲斐一条氏)
|
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
佐竹義政周辺の系図(身内)
八田宗網
┌------┼------┐
佐竹隆義 宇都宮朝綱 八田知家 寒川尼
├-------┬ ┌---┤
佐竹義政 秀義=====女 業綱
|
義重
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
また、佐竹氏は上総氏とも姻戚関係があったと伝わっています。
弟の秀義は、鎌倉殿の13人の一人「八田知家」の兄、宇都宮朝綱の娘を妻に迎えています。
弟 佐竹秀義
清和源氏義光流の流れを組む常陸源氏。当初は頼朝と敵対するが、後に合流し、奥州合戦で活躍する。
義政の近習、岩瀬与一太郎
義政の家人に、岩瀬与一太郎という頼朝に対して諫言した人物がいます。
後に、弟の佐竹秀義と同じく、頼朝の御家人となります。
佐竹義政ゆかりの地
大宝寺(佐竹屋敷跡)
応永6(1399)年に、佐竹氏の一族「佐竹義盛」が出家して創建された寺院(多福寺)
後に日蓮宗の僧が再興して多福山大宝寺となりました。


この辺は、佐竹氏の祖「新羅三郎義光」が、兄の源義家と一緒に「後三年の役」を鎮めた後に、鎌倉のこの地に屋敷を構えて、以降佐竹氏の屋敷になったと伝わります。
佐竹寺(北向観音)
茨城県常陸太田市にある佐竹寺は、坂東三十三観音第22番札所の寺院。本尊は十一面観音。
佐竹氏の初代「佐竹昌義(新羅三郎義光の孫)」が、寺領を寄進し佐竹氏代々の祈願所と定め、寺観を整えた。
この寺で節が一つしかない竹を見つけ、佐竹氏を称したとされる。


本堂は北向に建てられていて北向観音と呼ばれている。茅葺の本堂には佐竹氏の家紋があり国指定重要文化財。
佐竹稲荷神社(千代田区内神田)
江戸時代初期に、出羽秋田藩の藩主「佐竹義宣」の屋敷地だった千代田区内神田周辺は「旭町(あさひちょう)」と名付けられました。
明治二年に、この辺が慶長9年(1604)から七十数年にわたり、佐竹藩の江戸上屋敷だったと言うことで、当時の役人が佐竹氏の家紋から「旭町」と付けました。
家紋の月と日輪を間違えたようです。佐竹氏の歴史を知らないお役人だったんでしょうね。


今は地図上から旭町と地名は消えましたが町会の名前として今も存続しています。
鎌倉で言うと大町にある、米町のような感じでしょうか。