佐原義連|戦国大名の三浦同寸まで繋がる、三浦氏傍流で三浦義明の十男

佐原義連|戦国大名の三浦同寸まで繋がる、三浦氏傍流で三浦義明の十男

2021-10-17

佐原(十郎)義連(さわら よしつら)

生没年不詳。三浦義明の子(十男?)。三浦義連。
鎌倉殿の13人に選ばれた、三浦義澄は兄。(かなり年齢は離れていると思われますが・・・)

相模国衣笠城の東南にある地名「佐原」にちなんで佐原と名乗っています。

佐原義連の簡易年表

時期年齢出来事
不明0誕生
治承4(1180)年三浦一族と共に頼朝の御家人となる
養和元(1181)年頼朝の寝所を警護する11名の内(家子)に選ばれる
上総広常岡崎義実の喧嘩を仲裁する
一ノ谷の戦いで義経率いる搦手軍に属する
 有名な「鵯越の逆落とし」
文治5(1189)年奥州合戦に従軍
頼朝の命により、北条時房の元服に際して烏帽子親に
建久3(1192)年頼朝上洛に従う。左衛門尉に。
不明 死亡。1192?、1203?、1221?などの説あり

奥州合戦で功を立てて、陸奥国会津を報償として与えられ、会津の豪族として発展する土台を築きました。

吾妻鏡より

上総広常と岡崎義実との喧嘩を仲裁

養和元(1181)年6月19日

源頼朝が納涼の散策のために三浦へ行かれた。
それには「三浦義澄」一族が以前から準備をしており、特別な接待があった。

上総広常とは、今の葉山町一色で落ち合ったが、広常の郎従はことごとく下馬して砂状に平伏したが、広常は馬を止めて会釈をするだけだった。

その時、佐原義連は頼朝の馬の前に控えていて、下馬すべきだと言ったという。

その後、三浦義明の旧跡に到着し、義澄は盃酒と埦飯を用意し、酒宴の際、岡崎義実が頼朝の水干を所望したところお与えになって義実はそれを着用。上総広常はそれをねたんで「自分の方が似合うと、義実のような老人には勿体ない」と言い、義実は怒り、広常と乱闘寸前になった。

十郎義連は走ってきて、叔父の義実を「鎌倉殿がお越しになり、義澄が準備に励んでいるのに、どうして好んで争うのだ」と𠮟りつけ、広常にも「貴方の振る舞いもまた礼儀にかなわぬものだ、遊興を妨げるとは如何なことか」と再三静止した。

この件で、義連は頼朝に大そう気に入られるようになったという。

北条政子の安産祈禱

養和元(1181)年 8月11日

その晩、御台所(政子)にお産の気配があった。
頼朝は、御祈祷の為に奉幣の御使を近国の神社へ遣わしたが、その中に三浦義連もいる。

三浦十二天(現、芦名一丁目十二所神社) 佐原十郎(三浦義連)

義時弟、北条五郎時房の加冠役に

文治5(1189)年 4月18日

北条時政の15才の3男(北条時房)が頼朝の御所で元服した。
そこで、並み居る御家人の中から頼朝は三浦十郎義連に加冠役に任じられた。

加冠役は、元服の時に冠をかぶらせる役で、当儀式では加冠を担当する人物が最も重んじられる。

義連は恐縮し頭を下げ辞退の意を示したが、頼朝は
「前年、三浦に出かけた時、上総広常岡崎義実が言い争った際に、これを宥めたため無事に済んだことがあった。その心映えにたいそう感心し、将来に渡り時房の庇護者にしたいと考えているで命じる」

ということで、辞退する理由もなかったという。

※8年も前の出来事を、頼朝はしっかりと覚えていてしっかりと報いるんですよね。この辺は人の使い方が上手だなと思います。

頼朝の岩殿観音堂参りにお供

建久3(1192)年 3月23日

頼朝が岩殿観音堂(現、逗子市の岩殿寺)に参られた。
三浦介(義澄)三浦左衛門尉(義連)以下がお供した。

左衛門尉に任じられてからは、義連の吾妻鏡の記載も変わっています。

三浦一族の系図

三浦為通が三浦の土地を賜って、三浦氏を名乗ってから三浦一族は始まりますが、その衣笠を嫡流が守りつつ、他の土地にも進出していったので、名前が違う三浦一族が続々と登場します(汗)

三浦為通
 |
 為継
 |
 義継
 ├-------------------------┬
三浦義明                      岡崎義実
 ├------┬------┬           |
杉本義宗   三浦義澄   佐原義連        佐奈田義忠
 |      |
和田義盛   三浦義村    
 |      |
        泰村(滅亡)

相模国全体に広がっていくので、三浦一族かどうか判断できるようにならないと吾妻鏡とか読み始めたら大混乱に陥ります・・・。

佐原流三浦氏系図

佐原義連からの系図を見ると、執権北条氏と姻戚関係だったことが分かります。
また、三浦義村(三浦氏嫡流)とも繋がりもあり、宝治合戦で佐原流三浦氏が残る一因にもなっています。


佐原義連              三浦義村
├------┬           | 
景連     盛連=== (後夫) ===矢部禅尼=== (前夫) ===北条泰時 (3代執権)
       ┌-----┼-----┐        |
       光盛    盛時    時連      北条時氏
      (佐原)   |   (検非違使)     ├-----┐
             |             北条経時   時頼(5代執権)
            三浦同寸

       

キーパーソンは矢部禅尼。横須賀市には矢部禅尼にちなんでか、大矢部、小矢部という住所があります。

矢部禅尼は、北条泰時(得宗家)と結婚して北条時氏を生んでいます。
その後、佐原流三浦氏の盛連と再婚し3人の子供が生まれたため、得宗家の時氏とは、同母兄弟になります。

そのために、この三人(光盛、盛時、時連)は宝治合戦の時に北条方について生き残るという流れです。

衣笠から久里浜方面に横須賀市佐原という地名が広がっていますね。

三浦一族ゆかりの地

YouTubeで三浦一族ゆかりの地巡り

満願寺(佐原義連廟所)

その佐原に「満願寺」という臨済宗建長寺派の禅寺が有ります。
開基が佐原義連です。

佐原十郎義連は、吾妻鏡にもたびたび登場し、源頼朝の信任厚く家子(11人の頼朝親衛隊、北条義時も)に。
奥州征伐で会津の地を与えられたようです。

そして、この一族が室町時代~戦国時代にかけて、北条早雲と激突するのです!

芦名十二所神社

佐原からは少し離れていますが、横須賀市芦名にある「十二所神社」

寿永元(1182)年 8月 北条政子の安産祈願のために近国の十二社に特使を派遣。頼朝に代わって佐原十郎義連が参詣しています。

石井山 長勝寺

鎌倉市材木座にある日蓮宗の寺院。建長5(1253)年に石井長勝が創建。
日蓮に帰依して自宅に建てた法華堂を日蓮上人に寄進したとされます。

石井長勝は三浦一族の佐原流とされ、鎌倉松葉ヶ谷の地頭を務めていたようです。

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