今回は鎌倉市内にある石碑の中でも、大町の大宝寺にある、佐竹屋敷跡の石碑を読んでみました。
佐竹氏は茨城県を地盤とする一族のようですけど、鎌倉にもゆかりのある場所が結構あったりするので、佐竹氏のことを知っておくのは有益だと思います。
目次
佐竹屋敷跡(大宝寺)

「佐竹屋敷跡」石碑の場所
大宝寺(日蓮宗)の入口横です。
石碑に書かれている文字は?
此所ハ佐竹四郎秀義以降代々ノ屋鋪蹟ト云ウ
昔當所ニ佐竹氏ノ霊社アリシガ後年村内天王社ニ合祀ス
後ノ山ヲ佐竹山ト呼ブ其ノ形扇ノ地紙ニ似テ中二三本ノ疇アリ左右ヲ合テ五本骨ノ如シ
昭和七年三月建 鎌倉町青年團
この場所は佐竹秀義以降、代々の屋敷跡と伝わっている。
昔、この場所に佐竹氏の祖先を祀る社があったが、後に村内の天王社に合わせ祀ることになった。
後の山を佐竹山と呼ぶが、その形が扇の地紙に似て、中に三本のウネがあり左右合わせて5本骨の扇に見える
昭和7年3月建 鎌倉町青年団
※間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
鋪:ホ、みせ:みせ、店舗
地紙:ジガミ|扇などに貼るためにその形に切った紙
疇:チュウ、うね:うね、同類、昔 ※ここでは区切りのような
事前知識(歴史編)
佐竹四郎秀義
1151-1226年。佐竹秀義(さたけひでよし)。別名「四郎」。
源義光(新羅三郎)の孫「源昌義(佐竹昌義)」が常陸国佐竹郷に住んで、佐竹を号する。
佐竹秀義は佐竹氏3代目。
佐竹氏
ここでは佐竹氏について、簡単に整理してみたいと思います。
千葉氏との因縁
佐竹氏は「相馬御厨」の支配権を巡りって房総半島の上総氏や千葉氏との関係が悪かった。
千葉常胤の次男が相馬御厨を相続し「相馬師常」と名乗っていたことから領地問題があることが分かりますね。
そんなこともあり、源頼朝の挙兵に応じた千葉氏や上総氏とは異なり、平家側へ。
その後、上総広常の勧めで佐竹氏攻略が始まり、兄の義政が殺害され、頼朝軍に完敗したが、後に頼朝に罪を許され御家人となった。
佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」
佐竹氏ゆかりの日蓮宗「大宝寺」には、佐竹氏の家紋を見ることができます。

多福山 大宝寺|日蓮宗
大宝寺は、新羅三郎義光の時代からの佐竹氏の屋敷地。
1399年に出家した佐竹義盛が多福寺というお寺にしたのがお寺の始まりですね。
その後、日蓮宗の高僧が再興して大宝寺へ。
元の多福寺は多福山と山号になり、屋敷があったときから建てられていた神社は「多福稲荷」として今も境内に残ってます。


八雲神社(大町)
石碑に書かれている「村内天王社ニ合祀」は、八雲神社の事かと思います。
祭神にも「佐竹氏の霊」って書いてありますしね。

この八雲神社は、佐竹氏の祖「新羅三郎義光」が京都祇園社(現:八坂神社)から勧請したのが始まり。
佐竹屋敷(大宝寺)にあった祠が合祀されて「佐竹天王」と呼ばれてたとか。
坂東33観音霊場|妙福山 佐竹寺(北向観音)
源頼朝が始めた坂東33観音霊場。
佐竹氏ゆかりのお寺が茨城県常陸太田市にあります。22番札所です。


本堂には、佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」が見られます。
