吾妻鏡を読み始めた時に、早い段階(頼朝の挙兵)で出てきた「佐々木四兄弟」
それを匿っていたのが「渋谷重国」でも彼は平家方の人間。どうして?
そんなことから興味を持った「渋谷重国」と言う人物をちょっと追ってみることにしました。
目次
渋谷重国(渋谷庄司重国|しぶや しげくに)
生没年不詳。
「渋谷重国」は吾妻鏡でも主に前半戦にしか出てきませんが、平治の乱で源義朝(頼朝父)に与し敗北、所領を没収された佐々木一族(秀義とその子等)を匿ったり、平家の総大将「大庭景親」の命令に断固抗議したりと、勝か負けるかの武士の世界で異彩を放つ人物だと思います。
御家人ゆかりの地巡りで、綾瀬市にある早川城跡へ
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) July 16, 2021
佐々木四兄弟を庇護した渋谷重国の居城。小田急の高座渋谷駅も渋谷氏に関係してるよね!
ちなみにすぐ南は大庭御厨⚔️#綾瀬市 #城址 #空堀 pic.twitter.com/WqQhu2QozS
渋谷重国の簡易年表
渋谷重国を中心に、その子供たちに関係する出来事も一部盛り込んでみました。
残念なのは生誕が分かっていないということ。
吾妻鏡で1194年以降の記録が無いと言うことは、その周辺で亡くなったことも想定されます。
そうすると、源頼朝よりも10~20歳くらい年上って感じでしょうか?
年代 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
生誕不詳 | 0 | 父「河崎重家」の子として生まれる |
平治元年(1160) | 平治の乱で源義朝(頼朝父)に従う | |
佐々木秀義とその子らを渋谷荘に引き留めて援助する | ||
治承4年(1180) | 源頼朝挙兵。大庭景親(平家方)の軍に属して戦う | |
頼朝に臣従して所領を安堵 | ||
元暦元年(1184) | 木曽義仲追討軍に、子「高重」と共に参加 | |
文治元年(1185) | 子「重助」が無断任官問題で頼朝の怒りを買う | |
建久5年(1194) | 導師を迎える馬の割り当て記事が「吾妻鏡」の最後の記録 |
平治の乱で平重盛を撃退
頼朝の挙兵より前に起った内乱「平治の乱」
ここで、渋谷重国は平清盛と敵対する源義朝側で参戦しています。
途中、平家方の平重盛(清盛の長男|当時23才)を撃退するために、源義朝の長男「鎌倉悪源太義平(当時19才)」の軍として戦います。義平17騎の一人。
その中には、後日、頼朝に従い鎌倉幕府創設に貢献した「三浦義澄」「足立遠元」も一緒でした。
なお、鎌倉悪源太義平の母は三浦義明の娘とも言われています。
佐々木秀義と四兄弟
佐々木秀義(1112-1184)近江源氏。頼朝の挙兵を助けた佐々木四兄弟の父。
近江国蒲生郡佐々木荘。平治の乱で義朝軍に属し敗北。所領を奪われ、秀衡を頼って奥州に落ち延びる途中に、渋谷重国に引き留められ、娘を娶り5男を生み、20年もの間渋谷荘に住んだ。
佐々木四兄弟は、伊豆に流された頼朝の所に密かに通っていたという。
四兄弟は、太郎定綱、次郎経高、三郎盛綱、四郎高綱。
石橋山の合戦で敗北し、箱根の山中で佐々木四兄弟は途中で阿野全成(義経同母兄)と出会い、渋谷重国の館に連れてきたが、喜んで迎え入れたという。重国、なんという懐の深さでしょうか。
子 重助の無断任官
つい先日、渋谷重国は平家追討の件で頼朝から褒美の言葉を貰ったのに、子「渋谷重助」の無断任官や今までの行動について避難され、被害は父親の重国にまで及ぶ・・・
文治元(1185)年5月9日
渋谷五郎重助が頼朝の推薦を受けないで任官したことについて、改めて任官を取り消すよう決定した。
父の渋谷重国は、石橋山の戦いの時に頼朝に射立てたが特別に許し召し任われたが、重助はなお平家に属し、平家が都落ちしたら木曽義仲に従い、義仲滅亡後には源義経の第一の家来となった。
これらは精強な兵士ということで許してきたが、ついに任官してしまった。非常にけしからんことだと。また、重国は豊後国に渡ったとき先陣の功があったが、源範頼に先立って上洛した事も不快であると。
渋谷重国周辺の系図
渋谷重国は武蔵武士として説明されることが多いのですが、遡っていくと秩父武基へ、なので畠山重忠とも随分と坂載りますけど繋がっているということになります。
この辺の人たちは、生没年不詳が多くて、系図もいろいろで、いろんな史料やネットを見れば見るほど混乱しますね・・・。細かいところは気にせずに大きな流れを掴みましょう。
秩父将恒 → 平忠常を追討
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秩父武基(秩父別当)
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秩父武綱 → 前九年の役・後三年の役
├------┐
秩父重綱 小机基家(河崎冠者)
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秩父重弘 河崎重家
| ├-------┐
畠山重能 渋谷重国(?) 渋谷金王丸常光(土佐坊昌俊)
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畠山重忠 渋谷光重 渋谷高重 渋谷重助 佐々木秀義室
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
※系図には諸説あります。
特に小机基家は秩父武基の子、秩父武綱の兄弟とする物もあります。
渋谷氏の所領範囲
渋谷氏の所領は一族の名前を見ると分かりますが結構広大な範囲です。
まず「河崎冠者基家」
前九年合戦の軍功で「武蔵国豊島郡谷盛庄(現 東京都渋谷区)」を与えられています。
他にも「武蔵国荏原郡」を知行し、河崎冠者を名乗っているので、現 神奈川県川崎市周辺も領地っぽいです。
また、小机という別名も有るので、川崎の南部も領地でしょうか。
そして「渋谷庄司重国」
この渋谷は東京都の渋谷ではなくて、現在小田急の駅名で残っている「高座渋谷」がポイント。
居城が神奈川県綾瀬市の早川城なので、ここから高座渋谷を経由して小机方面に向かって領地を持っていたのではと想定されます。大地主さんです。
渋谷一族ゆかりの地
金王八幡宮(東京都渋谷区)
東京都渋谷にある金王八幡宮。1092年創建。
前九年合戦の武功によって、渋谷重国、土佐坊昌俊の祖父(とされる)「河崎冠者基家」が、1051年に与えられた武蔵国豊島郡谷盛庄が渋谷の地にあたります。


渋谷に行ったので金王八幡宮へ
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) July 14, 2021
佐々木四兄弟を庇護した渋谷重国の渋谷氏の居城
神社の名前にもなってる金王丸は重国の弟で、後の土佐坊昌俊とも言われてるとか🤔#渋谷 #金王丸 #鎌倉 #渋谷城 pic.twitter.com/1kcktYaJ6F
早川城跡
神奈川県綾瀬市早川にある城山公園は早川城跡です。無料の駐車場も完備されています。
車以外の場合だと、海老名駅から「城山公園」バス停まで、相鉄バスが出ています。
公園の中の散歩道には、説明板が5、6か所建てられていて読みながら歩くのが楽しいです。
渋谷氏に関する説明板は2か所くらいで、他は城の構成(空堀とか堀切とか)の説明や、縄文時代とか昔の遺跡についての説明が結構多かったです。


渋谷氏は綾瀬市域と中心に渋谷荘(吉田荘)という荘園を支配下に置いたと考えられています。
重国の後を継いだのは「高重」。
ここ渋谷荘を継いで、地名から「早川次郎」と名乗ったと書かれています。後に東郷氏を名乗る。


公園の真ん中くらいにある塚。江戸時代初期以前に築かれた見張りの為の「物見塚」と言うらしいのですが、周りをロープに囲まれて石碑まで行くことはできませんでした。が、説明板が近くに設置されています。
昭和7年に、旧海軍元帥「東郷平八郎」の先祖の地であることを記念して建てられたと。
つまり、東郷平八郎は早川城主の渋谷氏の末裔だったそうです。
東郷平八郎と言えば、日蓮宗ということで鎌倉の収玄寺に東郷平八郎筆の大きな石碑が建ってます。
権力のある人は、いろんな場所に軌跡を残していきますね。
長泉寺
早川城址から1.5kmほど離れた場所にある、曹洞宗の長泉寺。駐車場はありません。
今はかなり荒れている仏閣ですが、長泉寺に入る分れ道の近くにお寺の説明板(写真右下)が建っていました。
行ったときは7月の梅雨明けの時期で、草木でほとんど読めない状態でしたが。
(これで、このお寺の整備状況が分かるというもの・・・)


説明板には、
かつてここには、中世の在地領主渋谷氏の菩提寺と伝えられる祖師山菩提寺という寺がありました。
渋谷庄司重国の孫、曽司五郎定心(入来院氏)とのゆかりも考えられる一帯と言えましょう。
と書かれています。
入来院氏は重国の嫡男「光重」の五男筋です。
1142年、宝治合戦の後、軍功によって薩摩国入来院に所領を得て、地頭となってその地へ下ったとのこと。
ちなみに、渋谷氏を継いだ次男「高重」は、1213年の和田合戦で和田義盛に組して討たれてしまいました。