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曽我祐信(そがすけのぶ)
生没年不詳。曽我太郎祐信とも。
相模国曽我荘の領主で、曽我兄弟の養父(継父)となる。鎌倉幕府の御家人。
曽我祐信の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
生年不詳 | 0 | 誕生(父:曽我祐家) |
治承4(1180)年 | 石橋山の戦い 大庭景親軍として頼朝の対立するも、後に御厚情により赦免 | |
元暦元(1184)年 | 一ノ谷の戦い 源範頼軍に属して平家軍と戦う | |
文治5(1189)年 | 御弓始の射手に選ばれる | |
建久4(1193)年 | 富士の巻狩り(曽我兄弟の仇討ち) 矢口餅を賜る儀式で、頼朝の意図を汲めず教養の無さを露呈 | |
曽我兄弟の連座を免れ、兄弟の菩提を弔うよう曽我荘の年貢を免許 | ||
没年不詳 | 死去 |
石橋山の戦いでは平家軍として戦う
祖父の狩野茂光(工藤茂光)は源氏方についてますが、祐信は初め平氏方へ。
この工藤一族も複雑ですね。
治承4(1180)年8月23日
相模国の住人、大庭景親、俣野景久、河村義秀、渋谷重国、曽我祐信、山内首藤経俊、長尾定景、熊谷直実をはじめ平家被官の3000騎が、石橋山辺りに陣を構えていた。頼朝軍の陣とは一つの谷で隔てられていた。
同年11月17日
常陸国の佐竹攻めから鎌倉へお帰りになった。
曽我太郎祐信が、御厚情により赦免された。
曽我兄弟の仇討ち以後
連れ子が勝手にやった事ながら、頼朝まで襲っておいて、養父としては責任は免れないだろうと祐信は思っていたに違いありません。
建久4(1193)年6月1日
曾我五郎の弟に僧がいて、伊東祐清の妻が引き取って養っていたが、兄たちと同意した罪に問うべきと、工藤祐経の妻子が訴えてきたので、御使を遣わした。
(兄弟の連座を聞き)曽我兄弟の継父曽我太郎祐信は恐怖で魂が消え入るようだったが、共に仇討ちに関与したという証拠がないため許された。
同年6月7日
曾我祐信が、駿河国から鎌倉へ戻る頼朝に祗候していた時、道中で暇を頂いたうえ、曽我荘の年貢も免除され、曽我兄弟の菩提を弔うように命じられた
曽我祐信周辺の系図
曽我兄弟の「曽我」という名前は、養父からついた名前です。
実父の家名は「河津」ですから、これも混乱のもとになりますね・・・・。
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狩野茂光 伊東祐家
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曽我祐家 伊東祐親
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先妻===曽我祐信===満江御前===河津祐泰(曽我兄弟の実父)
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曽我祐綱 曽我五郎祐成 曽我十郎時致
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
継妻 満江御前
曽我兄弟の実母。
安元2(1176)年10月に工藤祐経に殺された後、5才の十郎と3歳の五郎を連れて祐信と再婚。
河津祐泰と曽我祐信はまた従兄弟の関係。祐信は先妻と死別していた。

嫡男 曽我祐綱
先妻の間に生まれ、家督を継ぐことが決まっていたのが、曽我小太郎祐綱。
曽我祐信の所領「曽我荘」は分割できるほど広くなく、五郎・十郎兄弟に分け与える土地は無かった。
父の祐信が吾妻鏡の記載が亡くなってからは、祐綱の記録が出てきます。
曽我祐信ゆかりの地
大きなお寺には駐車場がありますが、館跡などの小さな史跡には駐車場がありません。
また、周辺は小さな道で蛇行し、アップダウンも激しいため、車で回るのは非常に厳しいです。
近くの小田原アイス工房の横に砂利地の大きな駐車スペースがあるのでそこに止めて回るのがおススメ。
曽我祐信屋敷跡(曽我氏館跡伝承地)
▶ 神奈川県小田原市曽我谷津|🅿なし
発掘調査では遺構が見つかっていないが、「新編相模国風土記稿」に、曾我谷津村の南側、城前寺の後と書いてることから、この辺と推測されているようです。


城前寺(曽我兄弟の菩提寺)
▶ 神奈川県小田原市曽我谷津592|🅿あり
曽我兄弟が育った曾我城(曽我祐信館跡?)の大手前にあることから城前寺との名前がついたとか。
曽我兄弟が工藤祐経を討ったあとに、叔父の宇佐見禅師が遺骨を持って庵を結び菩提を弔ったのが始まり。
ここでは寺務所で、城前寺本 曽我兄弟物語(1000円)を購入できます。
境内には、曽我兄弟の墓の隣に、曽我祐信の墓と満江御前の墓もあります。




満江御前屋敷跡(小袖乞い伝承地)
▶ 神奈川県小田原市曽我別所126|🅿なし
曽我氏の下屋敷と伝わる場所が、満江御前屋敷跡。
工藤祐経を討つために富士の裾野へ向かう前に、今生の別れに母の満江御前から小袖を貰った場所とされています。
駐車スペースはありそうですが、駐車禁止看板が二か所も置かれています(汗)


満江御前の墓(法蓮寺)
▶ 神奈川県小田原市曽我別所54|🅿あり|
曽我兄弟が工藤祐経を仇討ちし2年後、建久6(1195)年、夫祐信と共に出家。
この曾我別所に大御堂を立てて兄弟の霊を供養するも、正治元(1199)年の兄弟の七回忌に死去。50才くらいだったそうです。

