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平重衡(たいらのしげひら)
1157-1185
平清盛の5男。母は平時子(清盛の継室)。南都焼き討ちを行った人物。
平重衡の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
保元2(1157)年 | 0 | 誕生(保元3の説もあり) |
治承3(1179)年 | 23 | 左近衛権中将に |
治承4(1180)年 | 24 | 以仁王の挙兵 甥維盛と共に大将軍として出陣し乱を治める |
12月 | 清盛の命により、興福寺・東大寺など焼き討ち | |
治承5(1181)年 | 25 | 墨俣川の戦い 源行家・源義円軍と戦い勝利。源義円を討ち取る |
寿永2(1183)年 | 27 | 木曽義仲軍との戦い 水島の戦い、室山の戦いを勝利し、福原まで進出 |
寿永3(1184)年 | 28 | 一ノ谷の戦い 源氏軍に敗退、梶原景時によって鎌倉へと護送 |
元暦2(1185)年 | 29 | 南都へ引き渡され、木津川畔で斬首 |
南都へ出陣
年が変わろうとしている年末に南都焼き討ちが行われました。
興福寺を燃やしてしまったため、特に藤原家からは非難ごうごうだったと思われます。
治承4(1180)12月25日
平重衡が、平清盛の使いとして数千の官軍を率いて、南都の衆徒を攻める為に出陣した。
12月28日
平重衡が南都を焼き払った。東大寺・興福寺の郭内にある堂塔は一つ残らず燃やされ、仏像・経論も同様に焼けてしまった。
頼朝後悔する
一ノ谷の戦いでとらえらえた平重衡は、鎌倉に連れてこられた。
元暦元(1184)年4月20日
平重衡は頼朝の許しがあって沐浴をする。その後、徒然を慰めようとおっしゃって、藤原邦道(頼朝の右筆)、工藤祐経、官女(千手前)を酒・果物を添えて重衡の元に遣わした。
祐経は鼓を打って今様を歌い、千手前は琵琶を弾き、重衡は横笛を吹いて大いに楽しんだ。
邦道は頼朝に「重衡は言葉も芸能も全くもって優美ですと」ことの次第を報告。
頼朝はその時の様子に感激し「世間体の為に、その場に居なかった自分がうらめしい」と言ったという。
重衡卿、南都へ
元暦2(1185)年6月22日
平重衡卿が東大寺へ送られた。衆徒の申請によるもの。
同年6月23日
本日、前三位中将平重衡が奈良(南都)で斬首された。東大寺伽藍の火災の首謀者だったため、衆徒が強く申し出ていた。
平重衡周辺の系図
平重衡は、父清盛の5男。
重盛(父清盛より早死)、宗盛、知盛、徳子(建礼門院、安徳天皇の母)とは兄弟姉妹の関係です。
平忠盛
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平清盛 平経盛
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平重盛 平宗盛 平知盛 平重衡 徳子 平敦盛
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平維盛 平清宗
一ノ谷で熊谷直実に討たれてしまう、平敦盛は従兄弟。
平重衡の妻
元暦2(1185)年4月11日 西海からの飛脚が壇ノ浦の戦いについての記録を持ってきた。
その中に、
一、生け捕りになった人々
女房 大納言典侍(平輔子|平重衡卿の妻)
の名前があります。
平重衡ゆかりの地
般若寺(供養塔)
▶ 奈良市般若寺町221 | 🅿あり | 拝観料300円
治承4年 12月11日に滋賀園城寺を焼討したのち、12月25日に大軍を率いて南都へ向かい、奈良坂般若寺に堀を掘り、逆茂木を巡らせた興福寺僧兵と戦った。平家方4万、南都勢7千。
平清衡が夜に「夜戦になった暗くなった、明かりを採るためにに人家に火を放て」と命じたが、冬の北風に煽られた炎は般若寺を焼き、東大寺、興福寺などの大伽藍を焼き尽くした。


一ノ谷の戦いで源氏に敗れて、須磨(下記)で囚われ鎌倉に送られたが、南都の大衆は身柄を引き取り、木津川の河原で処刑、その首を般若寺の門前にさらしたと。
平重衡とらわれの松跡
▶ 兵庫県神戸市須磨区須磨寺町1-13-1 |🅿なし |山陽電鉄「須磨寺駅」下車すぐ
山陽「須磨寺駅」の改札を出てすぐにある一ノ谷に戦いに関する史跡。
そのまま真っすぐ須磨寺前商店街を進むと、須磨寺へ到着します。
一ノ谷の戦いでは副将軍。生田の森から須磨まで逃れてきたが源氏の捕虜となってしまいました。


ちなみに、重衡を捕らえたのは「平家物語」では梶原景季、「東鑑」では梶原景時です。
教恩寺(鎌倉市大町)
▶ 神奈川県鎌倉市大町1-4-29 | 🅿なし |
鎌倉市大町の住宅街の中にある、時宗の寺院「中座山 教恩寺」
本尊の阿弥陀如来が運慶作で平重衡にゆかりがあるものだと伝えられていますが、本当かどうかは分かりません。
頼朝が鎌倉に連れてこられた平重衡に対して、一族の冥福を祈るようにと重衡に阿弥陀如来をあたえ、重衡は深く信仰したといわれているとか。

