武田信光|頼朝挙兵時から承久の乱まで戦った、甲斐武田氏の家督を継いだ信義5男

武田信光|頼朝挙兵時から承久の乱まで戦った、甲斐武田氏の家督を継いだ信義5男

2022-01-26

武田信光(たけだのぶみつ)

1162-1248?
武田信義の5男で伊豆守。甲斐国の石和庄に館を構えて拠点とした。石和五郎とも。

武田信光の簡易年表

時期年齢出来事
応保2(1162)年0誕生(父:武田信義、妻:新田義重娘)
治承4(1180)年鉢田の戦い
父と共に駿河国の目代「橘遠茂」と戦い、生け捕りにする
元暦元(1184)年木曽義仲追討一ノ谷の戦いにおいて戦功を挙げる
父の武田信義の隠居に伴い、信光が家督を継ぐ
文治5(1189)年奥州合戦に従軍
建久4(1193)年頼朝の富士の巻狩りに小笠原長清と供する
建仁3(1203)年阿野全成の謀反鎮圧に携わる
建暦3(1213)年和田合戦で北条軍(和田義盛追討軍)として戦う
承久3(1221)年承久の乱
小笠原長清とともに東山道大将軍として5万の兵を率いる
宝治2(1248)年87死去

吾妻鏡より

駿河目代を生け捕り

治承4(1180)年 10月13日

駿河目代「橘遠茂」が長田入道(源義朝を暗殺した長田忠致とされる)の作戦で富士野を廻って襲来するとの知らせがあったので、途中で迎え撃ち合戦すべきと決めた。

武田信義一条忠頼、板垣兼信(信義3男)、武田有義、安田義定、逸見光長、河内義長、石和信光らが富士北麓へ。石橋山の合戦後甲斐国へ逃げていた、加藤景廉も合流した。

翌 10月14日

武田・安田軍が鉢田(場所不明)の辺りに着いたとき駿河目代は大軍を率いて甲州へ向かっていたが、武田・安田軍と遭遇。

難しい地勢だったが、兵法を尽くして、石和信光加藤景廉らと先頭を進み、攻め戦い、長田入道子息2人の首と、橘遠茂を生け捕った。

吾妻鏡では石和は伊沢と書かれています。

武田信光周辺の系図

武田信光は武田信義の5男にも拘わらず家督を継いだ。
嫡男の一条忠頼は謀反の疑いにより頼朝の命で殺害され、4男?の逸見有義は梶原景時の乱に乗じて信光が排斥した。

源清光
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武田信義       安田義定          加賀美遠光     
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武田信光(5男) 一条忠頼(嫡男) 逸見有義(4男)   小笠原長清
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武田信政       一条信長      佐原義連

従兄弟の小笠原長清とは行動を共にすることが多いが、武田家庶流の子だったこともあり家督争いの心配が無かったからでしょうか?

ちなみに、武田信光と小笠原長清は弓馬四天王と称されています。

甲斐源氏ゆかりの地

石和八幡宮

▶ 山梨県笛吹市石和町市部1094|🅿あり|

建久3(1192)年 景行天皇時代(4世紀前半?)に祀られた物部神社の社地に、石和五郎信光が、鎌倉鶴岡八幡宮を勧請して祀った社。頼朝から5百貫(約2臆?)の寄進と和歌の奉納があった。

甲斐源氏の総鎮守と定められた。

信光寺(北杜市)

▶ 山梨県北杜市須玉町東向2679|

武田信光の墓

信光寺(伊豆の国市)

▶ 静岡県伊豆の国市寺家90|🅿あり|

武田信光(武田五郎信光入道光蓮)が開基のお寺、信光公の廟所(宝篋印塔)がある。
尼将軍(北条政子)の時に、信光は伊豆国の守護職に仁ぜられ12年間伊豆に居住したようです。

鎌倉から源頼家の病状伺いに修善寺に行ったとき、鎌倉へ帰る途中、この場所で頼家が殺されたことを聞いた。
それを嘆き悲しんで、守山の麓に小庵を結んで出家して「光蓮」と称して頼家の菩提を弔った。

と縁起には書いてあるそうです。

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