千葉市と千葉氏の歴史|房総の名族、誕生から滅亡までを広く浅く調べてみる

千葉市と千葉氏の歴史|房総の名族、誕生から滅亡までを広く浅く調べてみる

今回は鎌倉幕府の功労者「千葉常胤」を調べているうちに気になった千葉氏。

鎌倉時代を通しても御家人間の闘争を潜り抜けてきた名族ですね。
そんな千葉氏の大まかな流れを調べてみることにしました。

千葉市と千葉氏の歴史年表

千葉という地名は、大化の改新があった645年に命名されているのに驚きです。

西暦和暦出来事
645大化元年東国国司の任命「下総国千葉郡」
717養老元年千葉郡内に七郷が置かれる
889寛平元年高望王、「平」姓を賜り皇族を離れ臣下
 上総国の国司(介)として子供たちと関東へ赴任
1028長元元年平忠常(両総平氏の祖)の乱
1118元永元年千葉常胤誕生(千葉氏中興の祖|父:千葉常重、母:平政幹娘)
1126大治元年千葉常重、大椎から千葉へ本拠を移す
1156保元の乱、源義朝の下、千葉常胤・上総広常が参加
1180治承4年千葉常胤、源頼朝に参陣する
1185文治元年千葉常胤、下総の守護になる
1274文永11年千葉頼胤、九州出陣(蒙古襲来)
 千葉氏、下総と九州の二流に分かれる
1331元弘元年千葉貞胤。元弘の変に北条高時支配下として参加
1455康正元年馬加康胤・原胤房連合軍が千葉城焼き討ち
 千葉氏宗家滅亡し、本拠地を本佐倉へ移す

羽衣公園(羽衣の松)

羽衣公園の一角に、千葉氏(千葉を名乗り始めた由来)についての言い伝えが書いてある説明板があります。
じっくり読んでみると、昔の日本ってめちゃくちゃやな・・・と思います。

天女を自分の嫁にしたいから、悪戯して帰れない様にして、子供を産んで、
その話を天皇にしたら、天皇は感銘して・・・、なんでやねん!と突っ込みどころ満載です。

 むかし、千葉の亥鼻城下に、千葉(せんよう)の蓮(はす)の花の咲きほこる池田の池という美しい池があり、その周辺は蓮の花盛りの頃には、多くの見物人で賑わっていた。いつのころからか静まり返った夜半になると、ここに天女が舞い降り、かたわら松の枝に羽衣を掛け、蓮の花の美しさに見入っていたという。
 
 この天女のうわさは、時の城主「平常将」の知るところとなり、常将は、美しい天女をぜひ自分の妻にしたいと思い、家来に松に掛けられている羽衣を隠すように命じた。羽衣を失った天女は天に帰ることが出来ず、常将の妻となり、やがて立派な男の子を生んだという。

 この話は、京の天皇のお耳にも達し、天皇の命により参内した常将がそれまでの事情をありのままに申し上げたところ、天皇は深く感銘され、「これは前代未聞のことであるので、其方の地を千葉の蓮の花にあやかってこれから千葉と名乗れ」と仰せられた。常将はこの時から千葉氏を称したという。「妙見実録千葉紀」

羽衣の松

この伝説によれば、平常将が千葉氏初代、天女が生んだ子供が「千葉常長」ということになりますね。
※現在は、平常兼(1045-1126)が千葉氏初代当主とされています。(記録上初めて確認できるため)

まあ昔の事なのでいろんな説が出てくるのは当然で正解は分かりません。

羽衣公園(羽衣の松)の場所

千葉県庁南庁舎の目の前、千葉都市モノレール「県庁前」駅下車すぐの場所です。

平常将(たいらのつねまさ)

1010-1076。平常忠の子。
父は朝廷に反旗を翻した張本人(平忠常の乱|1028年)、1031年に降伏したが子の常将は罪を許された。

下総国に帰還した常将は千葉介を号した。

千葉介(ちばのすけ)

下総国千葉郡千葉荘荘を本拠としていた武家・千葉氏の家督が代々名乗った称号。
記録上初めて確認できる千葉介は千葉常重か千葉常胤。

1456年、下総守護職の千葉氏宗家は滅亡。支流の下総千葉氏の当主が千葉介の称号を継承した。

「介」は千葉氏の当主が下総国の在庁官人として下総権介の地位にあったことによる。

参考HP:http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/o_gekan_kokushi.html

亥鼻城跡(亥鼻公園)

猪鼻(いのはな)城跡はかつて鎌倉時代以来の千葉氏の城とされてきたところです。
実際にはそうでは無いらしいのですが・・・。

 猪鼻城跡はかつて鎌倉時代以来の千葉氏の城とされていました。平常兼の子常重が大治元年(1126)、上総国大椎(千葉市緑区)から千葉に本拠を移し、千葉という地名を名字とし、千葉常重と称しました。常重の子・常胤は源頼朝を助け鎌倉幕府の創設に大きく貢献し、その功績で北は東北地方から南は九州地方まで多くの所領を得ました。
 ところが、これまで猪鼻城跡で行われた発掘調査では、鎌倉時代の城や館の跡は見つかっていません。ここにあった城は、室町時代後期(戦国時代)に千葉市の有力家臣にあたる原氏により城郭として整備されたものと言う説が有力で、火葬骨を納めた13世紀の壺が発見されたことから、それ以前は墓域であったと考えられています。
 (途中省略)
 康正元年(1455)一族の馬加康胤・原胤房が宗家の千葉胤直を攻め滅ぼした後、千葉氏が本拠地を千葉から本佐倉に移したことや、以降や決定的な史料が見つかっていないこともあり、現在も千葉氏の館の場所は明確になっていません。

亥鼻城阯の碑は、猪鼻公園の北西側(お茶の水)から登ってきた途中に、猪鼻公園の上には千葉城があって、そこは千葉市立郷土博物館となっています。

猪鼻城は鎌倉時代のモノなので当然天守閣などはありません。

猪鼻城跡のある場所は、現在、千葉市猪鼻公園となっていて、麓には源頼朝伝説の「お茶の水」があります。
また、城の形をした「千葉市郷土博物館」があり、千葉氏の展示が楽しめます(無料)

千葉市郷土博物館

5階建てからなる博物館。
5階は展望室ですが、3階はワンフロア丸々千葉氏についての展示になっていて見ごたえ十分です。

しかも入館は無料です。千葉市に住んでたら、物凄く通っていると思います。

千葉市立郷土博物館

入館料  無料
開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日  月曜日・年末年始

展示時期も幅広く、平将門の乱から、千葉庄~千葉常胤の時代

室町時代に入ってからの千葉氏の動向についてまで、何枚ものパネルと資料で説明してくれています。

千葉氏が古河公方側について、関東管領上杉家と争っていたとか新しい発見が沢山ありました。

千葉常胤(千葉氏)ゆかりの地巡り

大日寺

来迎寺

君待橋|白幡神社|お茶の水

千葉市内の頼朝伝説|源頼朝が立ち寄ったとされる、君待橋・白幡神社・お茶の水を巡る
石橋山合戦敗北後の源頼朝の軌跡 石橋山の合戦に負けて安房へ逃れた頼朝は、安房国から下総国府に向かった。千葉氏はその途中にあり、頼朝は千葉を通過した可能性が高く、…
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