土屋宗遠|土肥実平を兄に持ち、実朝にも仕えた、頼朝挙兵時当初からの重臣

土屋宗遠|土肥実平を兄に持ち、実朝にも仕えた、頼朝挙兵時当初からの重臣

2021-10-13

土屋宗遠(つちや むねとお)

1128-1218
中村荘司宗平の三男で相州土屋の領主。室町時代の上杉禅秀の乱で敗走するまで土屋の地を支配した。

※芳盛寺では土屋三郎宗遠は(1123~1213)となっています。

土屋宗遠の簡易年表

頼朝の挙兵時にはすでに50歳を超えており、晩年活躍された鎌倉幕府の御家人の一人です。

時期年齢出来事
大治3(1128)年?0誕生(父:中村宗平の三男)
治承4(1180)年53頼朝の挙兵に当初から参陣
石橋山の戦いで敗北、安房に流れた七騎落の一人
寿永3(1184)年57一ノ谷の戦いに参加
屋島の戦い・壇ノ浦の合戦に参加
承元3(1209)年81梶原家茂(梶原景時の孫)を和賀江島周辺で殺害
和田義盛の元に出頭し身柄を預けられる
建保元(1213)年85和田の乱
子の土屋次郎義清ほか家の子郎党たちが和田に与し討死
建保6(1218)年90死去

甲斐源氏への使いとして

治承4年 9月20日

頼朝の使いとして宗遠は甲斐国へ向かった。
こちらは、安房・上総・下総・上野・下野・武蔵等の国々の精鋭を率いて駿河国に行き平家軍を待ち受けるので、(先に合流している)北条時政の案内で黄瀬川の周辺に来るようにと、武田信義に伝えるようにとの事。

宗遠が甲斐国の源氏と合流したのは四日後の9月24日。
武田信義一条忠頼を中心に評議し、駿河国で合流することになった。

土屋宗遠周辺の系図

平常宗 ← 鎌倉景正(鎌倉党)に討たれる
 |
中村(荘司)宗平
 ├------┬------┬------┬-------┬
中村重平   土肥実平   土屋宗遠   岡崎義実室   伊東祐親
        ├      |      |       ├---┬----┬
       土肥遠平   土屋義清   佐奈田与一義忠  八重姫 河津祐泰 伊東祐清
       [小早川氏]

土屋宗遠の妻は、三浦義継の娘(三浦義明の姉妹)
中村党と三浦一族の姻戚関係による強固な繋がりが見て取れます。

土屋宗遠ゆかりの地

相模国大住郡土屋(現:平塚市土屋)

大乗院

▶ 神奈川県平塚市土屋200|駐車場:有り(3~4台)

平安時代創建の天台宗延暦寺派の名刹で、土屋の領主だった土屋三郎宗遠が堂塔を再建。かつ檀越だったため相模国の一山と呼ばれるほど繁栄した。

土屋城址(土屋氏館跡)

▶ 神奈川県平塚市土屋1167-44|駐車場:なし|大乗院から徒歩5分ほど

今は無き「宗憲寺境内なり」と「新編相模国風土記稿」に記載。
字大庭に館を構えていて、現在は中世の館として最適な地形(三方を山に囲まれ、一つを川で配する地形)を持つ大乗院の南側と推定されている。

土屋一族の墓

大乗院の奥の道から細い道を登ったり、下ったりすると到着します。

土屋一族の墓への道標などが適宜あるので、迷うことは無いと思いますが、「この道行くの?」っていう感じの道を進む場所もあります。

芳盛寺

建仁4(1204)年創建。
土屋宗遠は晩年「空阿」と号し、菩提寺として創建したのが芳盛寺(当時は阿弥陀寺)

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