宇佐美実政|頼朝挙兵の当初から付き添った伊豆国の御家人、家子

2021-08-02

宇佐美(平次)実政(うさみ さねまさ)

誕生年不詳-1200。
伊豆国田方郡大見荘の住人。宇佐美でなく大見と表記されることも。

今回は、頼朝の挙兵時(石橋山合戦)から従っていた宇佐美実政について調べてみました。吾妻鏡にも情報が少ないので出来る限りではありますが・・・。

宇佐美実政の簡易年表

宇佐美実政は吾妻鏡に、約17日分しか出てきません。
他の家子と比べたら格段に少ないのではないでしょうか?

出来事
誕生
治承4(1180)年  8月20日 石橋山合戦では兄政光とともに頼朝に従う
養和元(1181)年 頼朝の寝所を警護する11名の内(家子)に選ばれる
1186年  6月伊勢林崎御厨の地頭職を改易
文治5(1189)年  9月7日 頼朝の奥州征伐に従軍、藤原泰衡の家人由利惟平を捕らえ武功を得る
 比企能員と共に北陸道の大将軍
建久元(1190)年  1月6日 藤原泰衡元家人の大河兼任が謀反すると、防戦したが戦死

治承4(1180)年8月 20日

源頼朝は、三浦一族など悪天候のため合流が遅れている御家人を待たずに、伊豆・相模両国の御家人だけで伊豆国を出て相模国土肥郷に向けて出発。

その中に、政光&実政の宇佐美兄弟と思われる名前が連名見られます。平太、平次も長男、次男ってことでしょう。
助茂は、2名とはちょっと離れたところに記載。三郎とあることから、関係無いと思われます。

宇佐見三郎助茂 、 宇佐美平太政光 、 宇佐美平次実政

※宇佐見三郎茂は宇佐見茂とも。伊豆国宇佐見荘を拠点とした武士。
工藤祐継の子で、工藤祐経の弟とのこと。

治承4(1180)年8月 24日

数で圧倒する平家軍「大庭景親軍」に対して、頼朝はなんとか凌ぎ山中に逃げ込みます。

大庭三郎景親は三千余騎を率いて迫ってきた。頼朝は後方の峰ににて、この間、加藤次景廉と大見平次実政が頼朝の後にとどまり、大庭景親の軍勢を防いだ。

実政の兄である大見平太政光は、弟を憐れんで前に進まず、馬を止めて矢を放った。

この吾妻鏡の内容で、政光と実政は兄弟の関係だと分かりますね。

治承4(1180)年10月23日

頼朝は相模の国府に着き、初めて勲功に対する恩賞を行った。その中に宇佐美(大見)の御家人が見えます。

(宇佐美)実政 (大見)家秀

文治5(1189)年9月7日

奥州征伐で、藤原泰衡の郎従「由利八郎維衡」を捕らえたのは誰か?という本人への、梶原景時と畠山重忠との対応の違いが有名な話の元になりました。

宇佐見平次実政が泰衡の郎従「由利八郎」を生け捕って、引き連れて陣岡に参上したが、天野右馬允則景が「自分が生け捕った」と言って争論になった。

そこで真偽を確かめるべく、「実否を囚人に訪ねるように」と、景時は頼朝に言われ実施。
対応が悪かったのか、無礼な態度など維衡が憤怒。

次に、頼朝は重忠に尋問させ、重忠は礼を正して尋問。
無礼が無かったため、維衡は「宇佐見平次実政」と答え、不審が解けたという出来事です。

建久元(1190)年1月18日

この日の吾妻鏡には、宇佐美平次実政の討死についての内容が書かれていますが、拍子抜けするほどあっさりです。。。

葛西三郎清重からの去る6日の飛脚が奥州から到着
「(大河)兼任と御家人たちが合戦をはじめ、味方の軍勢の内、・・・宇佐美平次実政・大見平次家秀・・・らが討ち取られました」

宇佐美(大見)一族の系図(作成中)

情報が少なすぎてあいまいな系図です。

曽我兄弟の仇討ちでおなじみの伊東氏とは縁続きの様ですが、大見氏と宇佐見氏が混同してるようで、これも良く分からないようです。。。。

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大見平三家政
  ├-----------------┬
大見平次家秀 ← 実政?      伊東祐隆の室
  |             ┌---┬---┐
大見小藤太成家         祐親  祐継  茂光

大見小藤太成家

工藤祐経の家臣。1176年に伊東祐親の暗殺を命じられるが、失敗して河津三郎祐泰を討ってしまい、祐親次男「祐清」の軍勢に討ち取られる。

河津三郎祐泰は曽我兄弟の実父。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」での配役

伊東祐清 八重姫の兄(演:竹財輝之助)
工藤祐経 伊豆国の武士(演:坪倉由幸)

宇佐美氏ゆかりの場所

大見城

実成寺

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