山内首藤経俊|頼朝の乳母で実母の「山内尼」に救われた御家人

山内首藤経俊|頼朝の乳母で実母の「山内尼」に救われた御家人

2021-08-16

山内首藤経俊(やまのうちすどう つねとし)

1137-1225。相模国鎌倉郡山内荘を領した御家人。
藤原秀郷の流れを汲む。母は源頼朝の乳母だった「山内尼」

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、山口馬木也さんが演じられます。

山内首藤経俊の簡易年表

時期年齢出来事
保延3(1137)年0誕生
平治の乱
父「俊通」、兄「俊綱」は参加し戦死するも、本人は病のため参陣せず
治承4(1180)年44頼朝の挙兵
安達盛長の加勢呼びかけの派遣に、暴言を吐き要請に応じず
大庭景親降伏後に捕らえられ、山内荘を没収
母「山内尼(頼朝乳母)」が頼朝の許を訪れ、助命を求める
元暦元(1184)年48平家残党の反乱追討に参加。伊勢国守護に。
文治元(1185)年49無断任官者24名の内の1人になり、頼朝の怒りを買う
正治元(1199)年53梶原景時弾劾に参加。
元久元(1204)年68三日平氏の乱で反乱鎮圧に失敗。伊勢・伊賀の守護職解任
嘉禄元(1225)年89死去

吾妻鏡から

経俊、頼朝の誘いに悪口を言い断る

治承4(1180)年 7月10日

安達盛長が言うには「相模国では、(頼朝の)命を受けて、味方になるものは多い。しかし、波多野義常と山内首藤経俊は、呼びかけに応じないばかりか、いくつもの悪口さえ言っている」とのこと。

頼朝乳母「山内尼」息子経俊の赦免を乞う

治承4(1180)年11月26日

山内(首藤)滝口三郎経俊と斬罪に処すべきと内々に決定した、それを聞いた、経俊の母「山内尼(頼朝の乳母)」は、息子の命を救う為に、泣きながら参上した。

「山内資道が源義家に仕え、源為義の乳母となって以来、代々源家に忠を尽くしてきました。特に、夫の山内首藤俊通は平治の乱に参加し、亡骸は六条河原にさらされました。経俊が大庭景親に味方したのは、後に平家の耳に入ることを憚ったため。石橋の辺りに陣を張った者の多くが恩赦に預かっています。なぜ、経俊の先祖の功を考慮して頂けないのでしょうか?」

頼朝は特に何も言わず、(頼朝が身に付けていた)鎧を持ってくるように土肥実平に命じ、それを山内尼の前に置いた。

その鎧には「滝口三郎藤原経俊」と書かれた矢が刺さっていて、山内尼はこれ以上言うことは出来なくなり、両眼の涙をぬぐって退出した。

頼朝は、山内尼の悲歎を考慮し、先祖の功労を重視して、さらし首の刑を許されたという。

無断任官で頼朝の怒りを買う

文治元(1185)年4月15日

頼朝は東国の住人で無断任官した多くの人物それぞれに、今で言うコメントを書いています。
経俊には「官職を好んでも、その役に立たない。何とも無益な事よ。」と。

合わせて、全員に、本国(鎌倉や所領)に戻ることを停止し、おのおの在京して守衛の公務を務めるように。命令に背いて墨俣川より東に下ってきたら本領を没収、斬罪を朝廷に申請して行うと。

三日平氏の乱で鎮圧に失敗

元久元(1204)年 3月9日

平賀朝雅の飛脚が鎌倉に到着。
「先月、伊賀国で平維基の子孫、伊勢国で平度光の子息らが、それぞれ蜂起、叛逆しました。両国の守護だった、山内首藤経俊が事情を調査しに赴いたところ襲撃され、無勢の経俊は逃亡。凶徒らは二か国を制圧し鈴鹿関などを塞ぎ、上洛できなくなりました。」

同年 3月10日

飛脚の返事に「謀叛人のことは、平賀朝雅が伊賀・伊勢両国に出陣し処罰するように」と

同年 4月21日

平賀朝雅の飛脚が鎌倉に到着。
「先月23日に京を立ち、鈴鹿の関所が塞がれていたので美濃国を回って、今月10~12日まで合戦しました。彼らは敗北しました。」

同年 5月6日

平賀朝雅の飛脚が鎌倉に到着。
先月(3月)29日に伊勢国に到着してから、合戦の次第、軍士の忠節の有無などをはっきりと注進。
初めは平氏を恐れて逃げていた山内首藤経俊は、後に平賀朝雅に合流して共に征伐に励んだと記載も

同年 5月10日

論功行賞。伊勢平氏追討の恩賞についてその決定があった。中原広元三善康信が奉行した。
平賀朝雅が伊勢国守護職に補任した。(この両国の守護は山内首藤経俊の本来の職だった)

山内首藤経俊周辺の系図

経俊の父「山内首藤俊通」が山内首藤氏の祖になります。
安倍貞任・安倍宗任の討伐に加わって相模国山内荘を本拠として山内首藤氏を称しました。

 首藤資通 → 源義家に従う
  |
 首藤親清
  |
 首藤義通
  |
山内首藤俊通======山内尼
  ┌-----┼
 俊綱(兄)   経俊
        |
        重俊

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

山内首藤氏は、昔から河内源氏の源義家や源義朝などに仕えていました。
その流れから、経俊も頼朝の誘いに乗ると思いきや・・・。

山内尼を母に持っていたことが経俊にとっては幸運でした。

山内首藤氏ゆかりの地

明月院(鎌倉市山ノ内)

紫陽花寺として全国的に有名な明月院。
山内首藤俊通の菩提を弔うために、子「経俊」が建てた明月庵が前身になっています。

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