目次
屋島の戦い(治承・寿永の乱)
元暦2(1185)年 2月18~21日
一ノ谷の戦いで惨敗した平家軍が、安徳天皇を奉じて屋島の讃岐壇ノ浦に本拠を構えていた場所に、源義経率いる源氏軍が徳島側(陸路)から奇襲をしかけ、平家軍を彦島に追いやった戦い。
平家軍は海路より攻めてくると、海側に兵力を集中させたため、裏をかかれてしまった。

源範頼、義経が西海で平家軍と戦っている間、鎌倉にいた源頼朝は、父「源義朝」の菩提を弔う「勝長寿院」の建設に夢中になっていました・・・。
合戦の経過
時期 | 日付 | 出来事 |
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寿永3(1184)年 | 2月7日 | 一ノ谷の戦いで、平家軍が敗走 |
12月7日 | 藤戸の戦いで、平家軍が敗走(佐々木盛綱 vs 平行盛) | |
船も無く兵糧も途絶え、源範頼率いる東国武士の戦意喪失 | ||
屋島の戦いメイン | ||
元暦2(1185)年 | 2月18日 | 源義経、暴風雨のなか、摂津から出発し阿波勝浦に上陸 |
2月19日 | 源氏の襲来に裏をかかれた平家軍は沖へ敗走 | |
2月20日 | 那須与一の扇の的エピソードが展開 | |
2月21日 | 平家の家人(讃岐の豪族)が離反、平家軍は彦島へ敗走 | |
2月22日 | 梶原景時ら東国の武士たちが、屋島の磯に到着 | |
3月8日 | 義経の飛脚が鎌倉へ到着、合戦の経過を報告した |
平家軍、一ノ谷から屋島へ敗走
義経、嵐の中を四国へ
元暦2(1185)年 2月18日
源義経は渡辺(大阪市福島区付近)から渡海しようとしたが、暴風で船の多くが破損、一艘も船出しなかった。
この時、源義経と梶原景時は逆櫓について論争したと言います。逆櫓の松跡(平家物語)
義経は「朝敵(平家軍)の追討使が少しでも留まるのは問題だ。暴風でも行かねばならぬ」
そこで、丑の刻(夜中2時頃)に5艘が出航、卯の刻(朝6時頃)に椿浦(徳島県阿南市)に到着した。
通常では3日かかる行程だった。
すぐに、150余騎を率いて上陸。
阿波国の住人に案内させて屋島へ向けて出陣した。(吾妻鏡)
義経、屋島へ到着
2月19日 AM 8:00
義経は、昨日夜通しかけて阿波国(徳島県)と讃岐国(香川県)の国境を中山峠を越えて、辰の刻(朝8時頃)に屋島の内裏の向かいに裏に到着し、牟礼と高松の民家を焼き払った。
安徳天皇や平宗盛など一族は、屋島の内裏を出て海上に逃れ、舟を出して互いに矢を射合った。
この間、佐藤継信、弟忠信らは内裏や宗盛の宿所など舎屋を焼き払った。(吾妻鏡)
佐藤継信の討死
平家の家人が船から降りて源氏軍と合戦し、義経の家人「佐藤継信(藤原秀衡の命により弟忠信と共に義経に随行)」が射取られてしまった。
義経は大いに嘆き悲しみ、僧(志度寺の覚阿上人?)に袈裟を請い遺骨に着せ、千株松の根本に葬り、継信の魂を沈める為に、秘蔵の名馬「大夫黒(たゆうぐろ)」を僧に贈った。
太夫黒は院の厩の馬であり、義経は行幸に同行するとき後白河法皇から頂いたもので戦場に向かう時は必ずまたがっていた。一ノ谷の戦いの「鵯越の逆落とし」でもまたがっていたという。(吾妻鏡)
平家方に離反、彦島へ敗走
2月21日
平家は讃岐国志度寺(四国88か所|86番札所)に引きこもる。
源義経は80騎の兵で追いかけた。
平家の家人「栗田教能」が義経方に帰順。また、伊予水軍率いる河野通信は30艘の兵船で加勢。熊野別当湛増も源氏に味方するとの噂がたった。(吾妻鏡)
平家は屋島に引き返すも、梶原景時の大船団が来ると噂に翻弄され、夕方頃、西国(彦島)へ落ちる。
源義経の本隊が屋島へ到着
2月22日
梶原平三景時らの東国武士が、140余りの船で屋島の磯に到着した。屋島の戦いは平家が逃亡した後だった。(吾妻鏡)
源平屋島古戦場マップ
上記のマップ作製に関しては、現地で集めた情報を整理して記載しています。(全て訪問できていませんが・・・)
平家方史跡
安徳天皇社
寿永2(1183)、木曽義仲の軍勢から逃げた平家軍。
平家棟梁の平宗盛(清盛3男)は、安徳天皇を奉じて一の谷から屋島へ。
讃岐壇ノ浦の入江に臨み、後に険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得た場所だったため行宮を建てて将士の陣営を作った場所。


船隠し
寿永2(1183)年 7月
木曽義仲の軍に敗れた平家は、安徳天皇を奉じて屋島周辺に陣を構え勢力の回復を図った。
平家は庵治浦全体を兵船の船だまりとして、海上からの源氏の攻撃に備えた。
船だまりの一つのこの浦は、屋島の本営から見えない事から「船かくし」の地名が残る。


総門跡
平家軍が海辺の防御に備えて門を構えていた場所。
志度寺
屋島の陣を捨てた平家軍が、再起を図るために陣を引いた場所「志度道場(現、志度寺)
西国八十八ヵ所霊場第86番札所
源氏方史跡
瓜生ヶ丘
1日目の屋島の戦いが終わった後に源氏軍が本陣を敷いた場所。
義経弓流しの跡
義経が脇下にはさめていた弓を海中に落として、平家方の武士に熊手をかけられて危うく海中に落ちかかったが、義経は太刀で熊手をあしらい、左手の鞭で弓をかき寄せ引き上げた場所。
平家方に拾われて「源氏の大将がこんな弱い弓を使っているのか」と笑いものになるのを恐れたとか。


義経鞍掛松
寿永4(1185)年2月18-19日
平家追討の命を受けた源義経は、源氏の精鋭を率いて、阿波勝浦から大坂峠を越えて高松の里に入り、屋島を望むこの場所で人馬を整えて平家の陣を攻めたと伝えられています。
その時に義経が、この松に鞍をかけ休息したことからこの史跡が残ります。


血の池(屋島山頂)
屋島山頂にある駐車場から歩いてすぐの場所にあります。
源平屋島合戦の時に、讃岐壇ノ浦で戦い勝利した源氏の武士たちが血刀を洗ったため、池の水が赤くなったことから血の池と呼ばれるようになった。


佐藤継信 vs 平教経 の戦い
佐藤継信の碑
源義経の身代わりとなって、能登守「平教経(清盛の父忠盛の4男「教盛」の次男)」の強弓に倒れた継信の忠死を広く世人に知らせるために、初代高松藩主「松平頼重(水戸光圀の兄)」が屋島寺へ続く遍路道の傍らに建立したもの。
佐藤継信の墓は、牟礼町王墓にも。


菊王丸の墓
源義経の身代わりとなって、能登守「平教経(清盛の父忠盛の4男「教盛」の次男)」の強弓に倒れました。
そのとき、教経に仕えていた菊王丸は、継信に近づき首を切り落とそうとしたが、それを阻止するため、継信の弟忠信の弓によって討たれました。
菊王丸は、教経に抱えられ、自らの軍船に戻ったものの息を引き取りました。
菊王丸をあわれんだ教経はこの地で葬ったと伝わります。(享年18)


洲崎寺(佐藤継信菩提寺)
源平合戦で義経の身代わりとなり討死した佐藤継信の亡骸を戦火によって焼け落ちた本堂の扉に乗せて源氏の本陣「瓜生ヶ丘」まで運ばれたと伝わり、継信の菩提寺として毎年法要が行われます。
苔と磐で「屋島壇ノ浦の戦い」を表現した庭園が境内にあります。


射落畠
佐藤継信が忠死を遂げた場所。
那須与一の扇の的
駒立岩
祈り岩で神明に祈願を終えた那須与一が、海の中のこの岩まで駒を進めて足場を定め、扇の的を見事射抜いたことから駒立岩と呼ばれる。


祈り岩
那須与一が平家の船に立てた竿の先の扇の的を射るときに、「南無八幡大菩薩・・・願わくばあの扇の真中を射させ給え」と祈ったと伝えれる岩。


扇の的の絵


その他の史跡等
源平屋島合戦八百年祭供養碑
源平屋島合戦から数えて800年になる昭和60年に、昔を偲び、合戦戦没者の霊を弔う為に建立した供養碑。
屋島山頂の一角に設置されています。


錣引跡(平景清)
太刀を折られて逃げる源氏の「美尾屋十郎」の兜を、平家の「悪七兵衛景清(平景清)」が熊手で引っ掛け、強い腕の力で歌舞との錣(しころ)を引きちぎった。
景清の剛勇さと十郎の首の強さをお互いに称賛した伝説。(平家物語)


屋島寺
四国八十八ヶ所の第84番札所、本堂が鎌倉時代末頃の建築(重要文化財)
源平合戦の遺物などを陳列した宝物館がある(宝物館:500円)


談古嶺(だんこれい)
源平屋島古戦場「讃岐壇ノ浦」が眼下に一望できる場所。絶景の場所として有名です。
屋島山頂にある駐車場から歩いて100m程の場所にあります。
このページ上部の画像は談古嶺に設置してある説明板です。

