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家子(いえのこ)
吾妻鏡によると・・・
養和元(1181)年 4月 7日 壬子
御家人等の中で、特に弓矢に優れたもの、また信頼の厚い人物を選び、毎夜、御寝所の近辺に祗候するように定められた。(俗にいう、頼朝親衛隊、家子)
家子一覧(吾妻鏡 表示順)
御家人名 | 年齢 | 誕生年 | 親、兄弟等 |
---|---|---|---|
江間四郎(北条義時) | 19 | 1163 | 北条時政 次男、北条政子 弟 |
下河辺庄司行平 | - | ? | 下河辺行義 子 |
結城七郎朝光 | 14 | 1168 | 小山政光 三男 |
和田次郎義茂 | - | ? | 和田義盛 弟 |
梶原源太景季 | 20 | 1162 | 梶原景時 嫡男 |
宇佐美平次実政 | - | ? | |
榛谷四郎重朝 | - | ? | 小山田有重 次男、稲毛重成 弟 |
葛西三郎清重 | 20 | 1162 | 豊島清元 子 |
三浦十郎義連 | - | ? | 三浦義明 十男、三浦義澄 弟 |
千葉太郎胤正 | 41 | 1141? | 千葉常胤 嫡男 |
八田太郎知重 | - | ? | 八田知家 子 |
主に有力御家人の二世世代であり、将来を担う人材の育成という面もあったと見られる。
ウィキペディア
誕生年が不明な御家人が半分以上いますが、20才前後を中心とした人選のような気もします。
が、千葉胤正の年齢が高めなのが気になりますね。
家子詳細(年齢順)
北条義時(家子専一)
千葉胤正
梶原景季
葛西清重
結城朝光
下河辺行平
和田義茂
宇佐美実政
榛谷重朝
三浦義連
八田知重
家子の仕事(吾妻鏡より)
頼朝、夜中の2時に彗星をご覧になる
文治5(1189)年 2月28日
晴れ、丑の刻(午前2時)になって、住吉昌泰が参上して言った。
「今夜は見慣れない星が見えます。彗星かもしれません。」
源頼朝は御寝所から庭に出て彗星をご覧になられた。
三浦十郎義連と小山七朗朝光が頼朝の前に、梶原源太景季と八田太郎朝重が後ろに、帯剣して付き従った。
夜間外に出るときはいつもこのように付き従った。彼らは全員、頼朝の近臣である。
家子専一について(吾妻鏡より)
頼朝存命時代から時は過ぎた、宝治2(1248)年 閏12月28日
家子の一人だった「結城朝光(出家して日阿、当時81才)」と「足利義氏(足利義兼子、当時60才)」が、書簡の末尾の記載で相論となった。
足利義氏が、「足利家は門葉、結城家は御家人なのに、同等とは何事だと」
それに対して日阿は、頼朝時代の主な家子・侍の交名(人物を書き連ねた文書)が記してあり、御判もある文書を北条重時に渡した。
その文章では、足利義兼と結城朝光が同等であること、北条義時は家子の第一であることが明らかだった。
この時代まで生きている家子は結城朝光だけで、その文章を目にした北条重時は先祖の名を高めることが記載されているから名誉の証とするため預かります。ただ、入用の祭はお渡ししますと、なりました。
総論では結城朝光の言い分が通ったようですね。