結城朝光|寒川尼を母にもつ小山氏流、長生きで後半は幕府の重鎮に

結城朝光|寒川尼を母にもつ小山氏流、長生きで後半は幕府の重鎮に

2023-02-08

結城(小山)朝光(ゆうき ともみつ)

1168-1254。下総結城氏初代当主。
藤原北家秀郷流小山氏の流れをくむ。母が頼朝の乳母だった「寒川尼」。兄に小山朝政がいる。

結城氏は鎌倉・室町、戦国、安土桃山時代も息抜き、結城氏18代「結城秀康」は、家康の次男で結城氏の婿養子となり、越前国の福井に国替となった。

今回は福井県福井市にある福井城に行ってきました。福井城(続日本100名城 No.137)福井城は何重もの水堀に囲まれた大大名にふさわしい城郭だったと思われます。…
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結城朝光の簡易年表

時期年齢出来事
仁安3(1168)年誕生(父:小山政光、母:寒川尼)
事象4(1180)年13母・寒河尼の引き合わせで頼朝に臣従
頼朝が烏帽子親となって元服
養和元(1181)年14頼朝の寝所を警護する11名の内(家子)に選ばれる
元暦元(1184)年17宇治川の戦い(義仲追討)、平家追討軍に参加
文治5(1189)年22奥州合戦に参加
正治元(1199)年32梶原景時の変。
景時に讒訴され、逆に有力御家人66人連名で「景時糾弾訴状」を作成
承久3(1221)年54承久の乱。東山道軍の将の一人として参戦
寛喜元(1229)年62上野介に叙任
嘉禎元(1235)年68鎌倉幕府の評定衆の一員となる(すぐに辞任)
建長6(1254)年87享年87

結城朝光は鎌倉御家人の中でもかなりの長命。
頼朝時代を知る一人として、頼朝の死後は「関東遺老」として、幕府内でも重鎮となっています。

尊敬する人物は「畠山重忠
なので、重忠が北条氏に討伐された後は、政治の表舞台に出ることを控えつつましく暮らしていたという。

吾妻鏡の内容から

吾妻鏡から、結城朝光に関する内容を数日ピックアップしてみました。

頼朝乳母の寒川尼、末子を連れて隅田宿に参上

治承4(1180)年10月 2日

頼朝の乳母「寒川尼|故八田宗綱の息女、小山政光の妻」が、特にかわいがっている末子を連れて隅田宿に参上した。頼朝はすぐに御前に招き、昔話に花を咲かせる。

寒川尼は連れてきた末子を頼朝の側近として奉公させたいと言い、頼朝は末子を呼び、元服させ自分の烏帽子を取って与えた。この若者、名を「小山七郎宗朝」と名乗った。(後に朝光と改名)。今年十四歳。

平家追討に参加

元暦元(1184)年 8月 8日

晴れ。三河守(源範頼)が平家追討使として西海に赴く。午の刻(12:00)に鎌倉を出発した。
範頼の後ろに一千余騎が従い馬を並べた。

北条義時足利義兼、武田有義、千葉常胤三浦義澄義村八田知家・朝重、葛西清重、長沼宗実、結城朝光比企能員和田義盛工藤祐経土佐坊昌俊など。

頼朝は稲瀬の川辺で見物していた。

京にいる実朝御台所(坊門信清の娘)下向のお迎え

元久元(1204)年10月14日

坊門(前大納言)信清卿の娘が、将軍家(源実朝)の御台所(妻)として下向されるので、お迎えのために人々が上洛した。メンバーは下記の通り。

北条政範、結城朝光、千葉常秀、畠山重保、八田知尚、和田宗実、土肥惟平、葛西十郎、佐原景連、多々良明宗、長井時秀、宇佐美祐茂、佐々木盛季、南条平次、安西四郎ら。

同 11月20日

11月4日に、平賀朝雅の六角東洞院の邸宅で酒宴が有った時、朝雅と畠山重保との口論があった。しかし同席した者たちが宥めたので、何事もなく散会したと、伝わってきた。

平賀朝雅北条時政の後妻の「牧の方」の娘婿。これが畠山重忠の乱に繋がっていきます。。。

畠山重忠の乱|二俣川古戦場|畠山重忠公終焉の地(横浜市旭区)
今回は、畠山重忠が北条時政の策略にハマり自害、滅亡した場所、横浜市旭区の二俣川古戦場(最寄り駅は相鉄本線鶴ヶ峰駅)へ行ってきました。 行ってきました二俣川古戦場…
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最後は死去の記録

建長6(1254)年 2月24日

晴れ。酉の刻(18:00頃)に、「結城 前上野介 従五位下 藤原 朝臣 朝光法師(法名は日阿)」が死去した。

死去の数年前に家の格(足利氏の御門葉、結城氏の准門葉)を巡って足利義兼の子「足利義氏」と相論をしています。御門葉と准門葉では身分に差がないため、結城氏が勝訴。

その相論で結城朝光(当時は日阿)が提出した文書に、家子専一について書かれています。

家子|源頼朝に選ばれた御家人2世を中心とした頼朝親衛隊の11人
家子(いえのこ) 吾妻鏡によると・・・ 養和元(1181)年 4月 7日 壬子 御家人等の中で、特に弓矢に優れたもの、また信頼の厚い人物を選び、毎夜、御寝所の近…
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小山氏中心の系図

結城朝光と同じ頼朝の家子に選ばれた「下河辺行平」とは従兄弟の関係になります。
ともに秀郷流藤原氏です。

 |
太田行光
 ├--------┐
下河辺行義   小山政光====寒川尼
 |          ├‐------┬---------┐
下河辺行平   小山朝政(1155頃)  長沼宗政(1162)  結城朝光(1168)
                              |
                           結城朝広(1190)

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

結城朝光周辺の系図

結城朝光は、妻が伊賀朝光の娘(北条義時の後妻、伊賀の方の姉妹)ということもあり、執権北条氏と親戚関係になっています。 

           伊賀朝光=====二階堂行政
             ├-----┬---┬----┬
結城朝光 ===== 伊賀朝光娘   季光  光宗  伊賀の方=====北条義時
 |                               |
結城朝広                            北条政村

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

舅 伊賀朝光

朝光という同じ名を持つ舅、伊賀朝光(いがともみつ)も秀郷流藤原氏です。
天皇の秘書的役割を任とする「蔵人所」に代々仕えた官人の出身。伊賀守に任じられて伊賀を名乗りました。

なので父は、藤原光郷と藤原姓を名乗っています。

小山氏ゆかりの地

結城称名寺

結城城

南総里見八犬伝と結城氏

安房里見氏をテーマに江戸時代の作家、曲亭馬琴が書いた長編小説「南総里見八犬伝
物語は、永享12(1440)年に起った結城合戦(室町幕府 vs 結城氏朝軍)から始まります。

結城氏朝(ゆうきうじとも)は、下総結城氏11代当主。
結城氏の通し名「朝」を11代もの子孫が使っているのが凄いですね!

南総里見八犬伝|長編小説から学ぶ、鎌倉に攻め込んだ安房里見氏について
南総里見八犬伝とは 江戸時代後期(1814刊行-1842完結)に、曲亭馬琴(滝沢馬琴)が28年かけて完成させた長編小説。 完全空想ものではなくて、歴史上の出来事…
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