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小林秀雄(こばやしひでお)と鎌倉
小林秀雄は鎌倉検定本に掲載、つまり鎌倉市にとってゆかりのある人物です。
明治35年(1902)に、東京の神田付近で生まれます。
大学ではフランス文学を学び、いろんな人から影響を受けて、また影響を与えてきた、何とも説明しずらい職業?の批評家です。何冊か小林秀雄の本を読んでみないと、少しwebで調べたところで何も分かりそうにありません・・・。
鎌倉には若い頃から住み始めて、人生の大半を過ごした場所。お墓も北鎌倉の東慶寺にあります。
81才という長命の小林秀雄ですが、ここでは鎌倉に関係のある事柄を中心に時系列でざっくりと、興味が湧いたところから深堀してけるようにと、纏めています。
23才(1925、大正14年)大学生時代
東京帝国大学(今の東京大学)文学部(フランス文学科)に入学。
同級生に今日出海(こんひでみ|一つ年下|小説家・評論家・文化庁初代長官)がいます。
辰野金吾(建築家) →(指導)→ 関野貞(建築史学者)
|・奈良ホテル ・平城宮跡を発見、旧奈良県物産館陳列所を設計
|・日本銀行本店、大阪支店など設計
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辰野隆(東京帝国大学教授)
↓(指導)
小林秀雄・今日出海
また、友人を通じて中原中也(5才年下)と知り合ったのもこの年。
中原中也と同棲していた長谷川泰子(女優)を奪った感じになり、大学卒業年まで同棲(三角関係だった)
この事をきっかけに、しばらく二人は疎遠になりお互い別の女性とそれぞれ結婚することになりますが、二人の険悪な状況は終始続きます。
26才(1928、昭和3年)奈良居住時代
大学を卒業し、奈良へ住み、志賀直哉の家に出入りする。
27才(1929、昭和4年)論壇デビュー作品発表
『様々なる意匠』が発表される
29才(1931、昭和6年)鎌倉へ転居
鎌倉由比ガ浜に引っ越し、その後は、扇ガ谷、雪ノ下と移り住む。
鎌倉に住んでいた音楽評論家の吉田秀和(鎌倉市名誉市民)と交流する。吉田は中原中也からフランス語を学ぶ。
31才(1933、昭和8年)文芸雑誌を発行
川端康成らと「文學会(文藝春秋)」を創刊
35才(1937、昭和12年)中原中也との思い出
中原中也と鎌倉妙本寺で海棠(カイドウ)を眺める「中原中也の思い出」の場面。
「中原中也の思い出」は、中原中也が亡くなってから書かれた短編日記。
一緒にカイドウを見るなんて仲良さそうな二人ですが、中原中也が病気で鎌倉へ引っ越してくるまでは絶縁状態だったようです。
前年に2歳の長男が死去し、精神疾患的な兆候で入院。退院後に鎌倉の寿福寺境内の借家へ転居(たぶん寿福寺トンネルの近く)。中原中也はこの年に鎌倉養生院(現:清川病院)にて死去(享年30)。
44才(1946、昭和21年)日本中世文学の評論
『無常といふ事』を刊行、当麻(たいま)、徒然草、平家物語、西行、実朝の6編
63才(1965、昭和40年)長期連載開始
『本居宣長』の連載開始、約11年間続く。
81才(1983、昭和58年)死去
慶應義塾大学病院で死去。尿毒症と呼吸循環不全。
人生の前半戦は、結構バチバチした物書きをやっていた感じですが、晩年は日本の古典文学の方へ方向転換していったように思います。年齢を重ねるにつれて、だれでも人間丸くって行く。
そんなことを感じずには得られない、小林秀雄まとめでした。
墓地は東慶寺に
小林秀雄の墓地は東慶寺境内の奥にある墓地ゾーンにあります。
東慶寺には、小林秀雄の他にも文人のお墓が鎌倉の寺院の中でもかなり多いお寺です。
鎌倉幕府から続く歴史、後醍醐天皇の皇女が住職になり、江戸時代の縁切寺、禅宗、など文学者・哲学者・小説家にとってはいろいろと刺さるお寺だったのでしょうね。
※2024年2月現在、東慶寺の境内は写真撮影が禁止されています
山の辺の道の石標
奈良県の桜井市から奈良市まで続く、大和でもかなり古い道が「山の辺の道」と呼ばれてて、ハイカーさんにとっても人気ある場所です。
メインは桜井市から天理市までの約16kmほど。適度なアップダウンに、神社仏閣や古墳などの史跡も沢山点在してて歩いていて飽きることのないハイキングコースです。
その「山の辺の道」には「山邊道」と書かれた石標が3か所ほど建っていて、いろんなパンフレットに載っている有名な石標です。
この文字を書いたのが小林秀雄です。20代頃に志賀直哉宅に通っていたこともあるので、鎌倉だけじゃなくて奈良にもとってもゆかりのある人物なんですね。