新田義貞|稲村ガ崎から鎌倉へ乱入!鎌倉幕府を滅亡させた河内源氏一門

新田義貞|稲村ガ崎から鎌倉へ乱入!鎌倉幕府を滅亡させた河内源氏一門

新田義貞(にった よしさだ)

1301~1338年(約37歳)※死亡年齢にはいろんな説があるらしい。
小さい時の資料は少ないらしく、上野国(今の群馬県付近)の河内源氏一門、新田庄(太田市付近)の領主とのこと。

河内源氏一門ということで、正式名称は源義貞(みなもとのよしさだ)です。

日本城郭検定&日本百名城巡りで伺った「金山城(群馬県太田市)」には、新田義貞が祭られてる新田神社がありました。

死ぬまでには日本100名城をすべて巡ってみたいなと思っているのですが、どうせならある程度の知識を持って巡ったほうが楽しいに決まっていると、日本城郭検定に挑戦しま…
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影が薄い新田義貞の不思議

新田義貞は鎌倉幕府の北条得宗家一族を東勝寺にて実際に滅ぼした功労者。なのに影が薄い。。。
それは、室町幕府を開いた「足利尊氏」のせいでしょうね。

足利尊氏は反幕府側なのですが、京都の六波羅探題を攻めたのであって、鎌倉では戦をしていません。
※六波羅探題は鎌倉幕府の職名。朝廷側を監視する鎌倉幕府の京都支社みたいなもんですね。

そんな、新田義貞に光を当てます(笑)

足利尊氏と新田義貞の比較

さて、上記で新田義貞は「源義貞」が正式名称と書きました。そうです、源氏の流れをくむ武士です。
ここでちょっと系図を見てみましょう。

八幡太郎と呼ばれた「源義家」まで遡ります。

キーとなる人物(子供)は、嫡男(正室の年長の子)の義親(よしちか)と、三郎と言われた義国(よしくに)三男?です。

源義家-義親(嫡男)-為義-義朝-頼朝  長男からは頼朝!

   -義国(三男)-義重(長男)新田氏の祖
          -義康(次男)足利氏の祖

そんな感じで、源頼朝も新田義貞も足利尊氏も同じ「源義家」を祖とする同じ血筋だったんですね。
それば、周りの武家も一目置くわけです。

しかし1180年、源頼朝の挙兵にいち早く応じた足利氏は要職へ、遅れて応じた新田氏は冷遇されて、差が付いたようです。

鎌倉の戦い(新田義貞の鎌倉攻め)

1333年5月18日~5月21日
鎌倉において反幕府(新田義貞勢)vs鎌倉幕府(北条勢)が戦った4日間。


5月8日に上野国で挙兵し、小手指原(埼玉県所沢市)、久米川(東京都東村山市)、分倍河原(東京都府中市)と幕府側を破って進撃。

勢いありますねー。

で、この道は鎌倉往還の「上の道」と言われてまして。
鎌倉付近では、鎌倉・仮粧坂‐洲崎‐渡内(藤沢)‐飯田(横浜)‐府中‐碓氷峠 と続く。

吾妻鏡には鎌倉往還、鎌倉街道は江戸時代になってから。

洲崎古戦場跡

1333年5月18日? 新田義貞軍と赤橋守時率いる北条軍との戦いが行われた場所。
湘南モノレールが通っている(湘南深沢~湘南町屋の間)下ですね。

ここでは、新田義貞軍が勝利にして赤橋守時をはじめ100人近くが自刃したそうです。
また、近くに「泣塔」っていう心霊スポットがあります。この戦いでやぐらに葬られた戦死者を弔うために建てられたとも・・・。

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そして、鎌倉では軍勢を三つ(巨福呂坂|極楽寺坂|仮粧坂)に分散し攻撃を開始した新田義貞。

巨福呂坂(こぶくろざか)

洲崎で鎌倉北条軍を破るも、その先の巨福呂坂は守り固く突破できなかった。

鎌倉七口の一つ。巨福呂坂。
今はトンネルになっていますが、当時の巨福呂坂は今は繋がってなくて通行出来なくなっています。

ちなみに、レストラン「アルビコッカ鎌倉」の先が、元巨福呂坂です。

極楽寺坂

極楽寺坂の守り固く突破できず。新田分家の大館氏が稲村ケ崎から突破したが鎌倉勢の反撃にあう。そして十一人塚へ。
極楽寺坂にある成就院はこの鎌倉攻めで一回焼失して、江戸時代に再建されてます(汗)

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仮粧坂(けわいざか)

新田義貞の主力が率いるが、幕府の守り固く突破できず。

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概要はこんな感じなんですけど、
仮粧坂で手こずった新田義貞が極楽寺坂軍へ移り、稲村ケ崎の突破に成功、そして鎌倉中心部へと進むんですね。

最後は、北条得宗家の屋敷があった宝戒寺(東勝寺跡)で勝負ありと!

新田義貞ゆかりの地(鎌倉市内)

では、細かく史跡を見ていきましょー。

十一人塚(稲村ケ崎) 市指定史跡

1333年5月18日 鎌倉攻めで新田義貞軍の大舘宗氏(おおだてむねうじ)が極楽寺坂の切通しへ突入。
しかし、北条氏側(鎌倉幕府側)の猛反撃を受けて、稲瀬川で十一人が討死。

十一面観音像を建てて霊を弔ったとされる場所です。心霊スポットになってもおかしく無いですね(汗)

ちなみに大舘氏は新田氏の支族(分家)。
対象の大館宗氏は1288年生まれなので、新田貞義より13歳年上ですね。

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稲村ケ崎 国指定史跡

江の島と富士山がきれいに見える鎌倉の誇れる観光スポットです。
でも、ここは新田義貞ゆかりのスポット。

1333年5月21日未明 新田義貞が腰に差していた黄金造りの太刀を抜いて海中に投げ込んで、海に向かって「道を開けー」と龍神に祈った。
そしたら潮が引いて稲村ケ崎を渡ることができた。という「太平記」に記された伝説がある場所。

今は国道134号線が走ってますけど、地形をよく見ると山が続いて鎌倉へ行くには極楽寺坂か稲村ケ崎の海側を渡るしかなかったんですね。

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ちなみに、1934年に「稲村ケ崎(新田義貞徒渉伝説地)」で国指定史跡になってます。
その他の国指定史跡は、法華堂跡と日野俊基墓

乱橋(鎌倉十橋)

この橋(鎌倉十橋)も新田義貞ゆかりの場所ですね。

新田義貞が鎌倉市街地に攻め込んだ時に、鎌倉幕府側の防衛線が崩れたのがこのあたりだったと。
だから「乱」の読み方が「らん」じゃなくて「みだれ」なんですね。

今でもこの道を北に行くと、小町大路経由で宝戒寺まで一直線です。

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小動神社(こゆるぎじんじゃ)

腰越の海沿いにある神社。「こゆるぎの松」でも有名ですね。
新田義貞が鎌倉攻めするときに戦勝祈願して、1334~1338年に社殿を再興した。

小動神社って言い始めたのは明治の神仏分離から。その前は八王子社と言ってたようです。

ちなみに小動神社の向かいには「浄泉寺」っていうお寺があり、昔は一緒だったよう。
新田義貞が鎌倉攻めの途中で八王子社に奉納した剣が一時保管されたとも言われてるとか。

等覚寺(梶原)

なかなかマニアックなお寺さん。高野山真言宗。

新田義貞の鎌倉攻めで死んだ武士を供養する五輪塔や宝篋印塔などが祀られてます。
地図見ると良く分かるんですけど、洲崎古戦場跡に近い場所にあるから納得感はありますよね。


九品寺(くほんじ)

乱橋の付近にあるお寺。浄土宗
新田義貞が鎌倉に唯一建立したお寺で有名です。1336年と幕府が滅びてから3年後ですね。亡くなった北条方の菩提を弔うため。

開山は、新田義貞が尊敬していた風航順西(ふうこうじゅんさい)
山門と本堂に掲げられた「内裏山(山号)」と「九品寺」の額の字は、新田義貞の筆を映したものだそう。

九品寺に咲く花としては、ボケ(3月下旬~4月上旬)、バラ(5月中旬~6月下旬)が有名ですね。

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その後の新田義貞

鎌倉幕府を滅亡させ、後醍醐天皇の「建武の新政」が始まりましたが、まあこれが不評な訳で。

これに反旗を翻したが「足利尊氏」。日本各地の武士を味方につけて一大勢力に。
これに対して、新田義貞はあくまで後醍醐天皇側に付いたので足利尊氏と対立することになります。

最終的には、足利軍と戦い続け、越前国(福井県)で戦死してしまいました・・・。福井県には新田義貞に関する史跡が点在しています。

燈明時畷新田義貞戦没伝説地

えちぜん鉄道に乗っていると「新田塚」っていう駅名があります。

鎌倉市には江ノ電に「和田塚」って言うのがあって和田義盛の墓があるのと、新田義貞の終焉の地って確か越前の方だったよなという微かな記憶が結び付けてくれました。

江戸時代に地元の農民が新田義貞の兜を発見して、この場所が戦没地とされたみたいです。
亡くなってから300年間くらいは放置されてたのですね。。。。

また、新田義貞の墓は「称念寺(福井県坂井市丸岡町)」、新田一族を祀る「藤島神社(福井市毛矢)」が周辺にあります。


忠誠を誓い続けるか、時代の風を読むか、間違うとこうなるんですね(涙)

著:松井優征
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