【国宝】当麻曼荼羅縁起|光明寺の大壇越から寄進された絵画

【国宝】当麻曼荼羅縁起|光明寺の大壇越から寄進された絵画

国宝 当麻曼荼羅縁起(たいままんだらえんぎ)

鎌倉市で15件しかない(2022年度時点)国宝の中の一つです。

『当麻曼荼羅縁起絵巻二巻・附 寛政五年松平定信添書一巻』
紙本著色/上巻 縦51.5×長796.7 下巻 縦51.5×長689.8

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延宝三(1675)年、光明寺の大壇越だった内藤義概により寄進されたもの。

※内藤義概(ないとうよしむね)|江戸時代前期の大名、磐城平3代藩主

当麻曼荼羅縁起とは?

奈良・当麻寺(葛城市)が持っている「浄土変相図」の由来を描いた絵巻(上下2巻)

※変相図(へんそうず):仏教絵画のひとつで浄土や地獄の様子を絵画的に描いたもの。

天平時代「横佩の大臣(よこはぎのおとど)|藤原豊成」の姫が、極楽浄土に旅立つことを祈って蓮糸で曼荼羅を織り上げ、その願い(阿弥陀如来のお迎えを受けて極楽へ旅立つ)が叶うという内容。

中将姫について

中将姫(747-775)は藤原豊成との前妻との間にやっと出来た娘。

しかし中将姫が5歳の時に母は他界。6歳の時に後妻が来ますが、時の天皇にも召し出されるほどの中将姫の美貌と才能に後妻は嫉妬し、虐待、最終的には殺害を命じるまでになりました。

そんなこともあり、16歳の時の天皇の後宮への誘いも断り、當麻寺に入り尼僧になったようです。

        藤原鎌足
          :(曾孫)
紫の前=====藤原豊成[右大臣]=====照夜の前(後妻)
     |                 |
    中将姫 ←ーーー(憎み殺害を命じる)-┛

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

中将姫の説明板(當麻寺)

複製も多く作られました

インターネット等も無い時代、中将姫の事が広く知れ渡るのは平安時代になってから。

法然の弟子で浄土宗西山派の証空(1177-1247)が當麻寺を訪れたとき、この当麻曼荼羅を目にして感銘を受け転写を進め、多くの縮尺写本や中将姫の伝説を描いた何種類もの「当麻曼荼羅縁起」が製作されて、いろんな寺に伝わりました。

光明寺に寄進された「当麻曼荼羅縁起」もそのうちの一つなのでしょう。

文化庁HP内にある「国指定文化財等データベース」で、(當麻)当麻曼荼羅縁起絵巻を検索すると数件出てきますが、光明寺所有のモノだけが国宝で他は重要文化財になっています。(光明寺:紙本著色、それ以外:絹本著色)

光明寺の寺宝(鎌倉市)

また、中将姫が織り上げたとされる「当麻曼荼羅」について、光明寺は「絹本著色 当麻曼荼羅図一幅」も所有していますが、こちらは重要文化財になっています。

現在、光明寺では重要文化財本堂の保存修理事業を実施していて、寄付を行ったら當麻曼荼羅縁起絵巻をモチーフにした散華を頂けました!

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中将姫ゆかりの地

當麻寺(奈良県葛城市)

聖徳太子の異母弟「麻呂子親王」によって創建されたとされる古刹。
中将姫の寺として有名。

中将姫の伝承を再現する「練供養会式(ねりくようえしき)」。毎年4月14日に行われます。
※本来は中将姫の命日(旧暦3月14日)の開催でしたが、新暦を経て4月14日となりました。

中之坊(當麻寺塔頭)

役行者ゆかりの當麻寺最古の塔頭。
中将姫が尼僧になった剃髪堂、護り本尊の「導き観音」など中将姫ゆかりの遺跡が残ります。

中将姫剃髪堂

香藕園(こうぐうえん|中之坊庭園)

當麻寺境内にある東塔を借景とする庭園。小堀遠州とも交流がある「片桐石州(かたぎりせきしゅう)」が改修したとされ、大和三大庭園のひとつ。

當麻寺へのアクセス

アクセス:近鉄南大阪線「当麻寺駅」下車 徒歩にて約15分

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