鎌倉市のお隣「藤沢市村岡東」にある村岡城址(現、村岡城址公園)に石碑が建っていました。
石碑の後半には、鎌倉同人会という文字が。
これは石碑を読まなければということで、このページを作成しました。

目次
村岡城址

「村岡城址」石碑の場所
村岡城址公園の奥側に石碑が建っています。
席に周りに木が植えられていて、石碑を隠してしまう配置になっています。

公園自体は野球場のような広いグラウンドと、子供たちが遊べる遊具などが配置されています。
24時間自由に入れて、駐車場は無く、地元の公園と言った感じです。
石碑に書かれている文字は?
元帥伯爵東郷平八郎書
村岡城の地位は古来武相交通の要衝に在り往昔従五位下村岡五郎平良文公及び其の後裔五代の居城なり盖し其の築城は今を距ること約一千年前に屬す
良文公は関東八平氏の始祖にして天慶二年鎮守府将軍陸奥守に任せられ多くの荘園を有し威を関東に振ひたり
天慶の乱起こるに及び藤原秀郷平貞盛と共に将門を征討し大に軍功を立てたり
其の後裔に秩父平氏の一族渋谷庄司重国あり
其の孫實重は薩州東郷氏の祖なり
昭和六年村岡城址を史蹟として縣廳より指定せらる
同七年村岡村の有志相謀り鎌倉同人会の賛助を得城址に碑を建て以って後毘に傳ふと云爾
海軍中将東郷吉太郎撰書
昭和七年十月三日 鎌倉同人会建之
元帥伯爵 東郷平八郎 書
村岡城の立地は、古来、武蔵と相模の交通の要所にあり、昔、従五位下「村岡五郎平良文」公、およびその後裔5代の居城となった。
おそらく、其の築城は今から遡ること約1千年前だろう。
平良文公は、関東八平氏の始祖であり、天慶二年(939年)に鎮守府将軍陸奥守に任じられて、多くの荘園を持ち、関東で権勢を振るっていた。
天慶の乱が起ると、藤原秀郷、平貞盛と共に、平将門を攻め討ち大きな軍功を立てた。
その後裔に、秩父平氏の一族で渋谷庄司重国がいて、其の孫「実重」は薩州東郷氏の祖である。
昭和6年村岡城址が史跡として県庁から指定され、昭和7年村岡村の有志が協力し、鎌倉同人会の賛助を得て、村岡城址に石碑を立て、後の人々に伝えていければと思う。
海軍中将 東郷吉太郎(東郷平八郎甥) 選書
昭和7年10月3日 鎌倉同人会 建立
※間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
盖し:けだし|おそらく
後毘:こうび|後世。後の人々。
云爾:うんじ|文章の終わりに用い、これにほかならない、という意味を表す語
事前知識(歴史編)
天慶2年
939年。平安時代中期、関東で平将門が乱を起こし(平将門の乱)、瀬戸内海で藤原純友も乱を起こした(藤原純友の乱)。この二つの乱を「承平天慶の乱」という。
939年11月に平将門は常陸国府を攻め、翌12月に下野、上野国府を攻め取り、新皇と称した。
平良文(たいらのよしふみ)
886?-952。平良文は、平高望の5男で、坂東八平氏の祖。
渋谷庄司重国
生没年不詳。
渋谷重国は相模国高座郡渋谷荘を本拠として平家側ながら、源氏側の佐々木秀義と4人の子供を匿った。