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正中山 法華経寺(日蓮宗大本山)
法華経寺は日蓮宗の大本山。
日蓮の弟子「富木常忍(ときじょうにん)」が建てた法華経寺と日高が建てた本妙寺が合体して出来たお寺です。
久遠寺、池上本門寺とともに「日蓮宗三頭」に数えられます。
法華経寺の山門(赤門)の側には、下記のような歴史の散歩道という、近隣の史跡マップのような案内図があって、この辺が詳しくない方も、これを見ながら回れば結構楽しめると思います。
日常(富木常忍)
法華経寺の開山は日常となっていて、富木常忍が出家したあとの名前が日常です。
元々は下総国の守護だった千葉氏の被官。
その関係で千葉と鎌倉を往復するなかで、日蓮と出会い有力な信者となったそうです。同じく妻も。
NHKの100分で名著という番組で、名著116が「日蓮の手紙」というテーマで日蓮上人に迫るわけですが、その番組の中で日蓮の弟子の一人としてよく出てきたのが「富木常忍」。
何回も手紙のやりとりをしています。
日蓮宗の寺院には、よく日蓮宗の銅像を見るのですが、法華経寺では日常上人の像が建っています。
祖師堂の近く、奥の院(日常上人御廟所)の近くには、富木常忍の像があります。
日親(鍋かむり日親)と法宣院
第6代室町幕府将軍「足利義教」に、立正治国論という意見書を出し幕府を批判し、拷問を受けた際に灼熱の鍋を被りながらも説法を説いたとして「鍋かむり日親」と呼ばれるようになった日親(にっしん)。
法華経寺の側にある法宣院は日親ゆかりの地とされています。
お寺の入口には「なべかむり日親上人得度霊蹟」と書かれていて、ここで出家したようです。
ちなみに開山が「日胤」、鎌倉~室町時代の「千葉胤貞」が日蓮宗に帰依した後の名前です。
※妙隆寺(鎌倉)も千葉胤貞の鎌倉屋敷跡に建てられて開基となってます。
鎌倉の妙隆寺(小町)の2代住職を務めましたが、開基(初代)は日英という日親の叔父。
日英も日親も千葉の生まれで、日蓮宗を庇護していた下総国守護の千葉氏とも交流があったようです。
本阿弥光悦
本阿弥光悦は江戸時代初期の書家、陶芸家。寛永の三筆の一人。
京都の洛北鷹峯(たかがみね)に光悦村を開きました。俵屋宗達や尾形光琳とともに琳派の創始者ともされていますね。
中山法華経寺には、本阿弥家分骨墓、光悦の墓など4基がどうやら高見寺(塔頭?)そばにあるようです。
探したのですが、よく分からず・・・。
本阿弥家は、光悦の祖父の時代(投獄中に日親上人と出会って)から熱心な法華信者になります。
日親上人はなべかむり日親で有名な僧侶。京都で本法寺を開き、本阿弥家はココが菩提寺になっています。
加藤清正
戦国武将の加藤清正も熱心な法華信者。
日蓮宗の寺院にいろいろ寄進しているようで、日蓮宗寺院では加藤清正の為の祭事が行われている場所が結構ありそうです。
上記、中山法華経寺の行事日程を見ると、6月24日に「清正公大祭」が行われているのが分かりますね。
鎌倉の寺院でも「妙法寺(大町)」が5月5日に清正公祭を行っていて、加藤清正像が祀られている大覚殿で法要、その後お守りが配られます。
その他の人物
他にも法華信者(日蓮宗)で有名なのが、東郷平八郎(海軍大将)ですね。
いろんな日蓮宗寺院で揮毫しています。
日蓮宗大荒行(世界三大荒行)
今回、鎌倉からわざわざ足を運んだのは、法華経寺は日蓮宗大荒行が行われる場所なので、一回うかがってみようと思ったのがきっかけです。
この日蓮宗大荒行が終わった翌日(2月11日)に、鎌倉の長勝寺で最後の水行が行われる「大国禱会成満祭」が行われ、日蓮宗の荒行の一連を見てみたいと思ったのです。
熱も冷めやらぬ翌日2月12日に法華経寺に行ったのですが、2日前の大荒行成満祭の雰囲気がかすかに残っているような気がしました。
法華経寺 大荒行堂
法華経寺の本堂の側にある「大荒行堂」で100日間(毎年11月1日~翌年2月10日)の厳しい修行が行われます。
初日の入行会、最終日の成満祭は、家族や檀信徒の方などが集まって、賑やかの中にも緊張感が漂っています。最近は僧侶の方もYouTubeで動画を配信されているので、これを見て雰囲気を掴んでました。
すでに修行が終わって、静かな大荒行堂ですが、入口には修行されてる方の名前と寺院名などが貼られていました。日本全国からやってくるんですね。
長勝寺(鎌倉)
鎌倉市材木座にある日蓮宗寺院の長勝寺。
ココでは成満会を迎えた日蓮宗の僧侶の方が、最後の水行として長勝寺で「大国禱会成満祭」を行います。
人数的に、法華経寺で修業した僧侶の中で鎌倉近隣の寺院の方がココに集まって行っているものと思われます。
日本三大荒行の一つとされる「日蓮宗大荒行」関連の祭事を近所で見られるなんて、こんな貴重なことは無いですよね。