奈良時代の鎌倉の出来事について、割と詳しく調べてみました

奈良時代の鎌倉の出来事について、割と詳しく調べてみました

2024-02-04

奈良時代(710~794年)

奈良時代は、日本の首都が平城京(今の奈良市)にあった時代のこと。
第43代「元明天皇」から第50代「桓武天皇」が、京都の平安京に都を移すまでの期間を指します。

平城京(奈良)

第45代「聖武天皇」が東大寺の大仏を建立したり、藤原不比等の四兄弟らが長屋王の変を起こした後、全員が天然痘で病没、藤原明子(光明皇后)を臣下で最初の皇后にしたり、と藤原一族が権力を固めていく時代です。

平城京から遠く離れた鎌倉では政とは無縁で、地方の豪族が支配する一地域のような感じでしょうか。

710(和銅3)年 平城京遷都

鎌倉:豪族「染屋時忠」が甘縄神明神社を創建

甘縄神明神社は鎌倉最古の神社で祭神は「天照大神(あまてらすおおみかみ)」。
天照大神は日本神話の中心人物で天皇の祖です。有名な素戔嗚尊(スサノオ)は弟に当たります。

鎌倉市最古の神社「甘縄神明神社」
今回は、いろいろ派生できる、甘縄神明神社を深堀してみました。源氏の系図や、御家人安達一族について、関連付けながら知れると思いますよ。 甘縄神明神社 710年創立…
1192-diary.com

ちなみに、染屋時忠の子は、超有名な僧侶「良弁」だったという説があります。
良弁は、東大寺(奈良)、石山寺(滋賀)、大山寺(伊勢原)を開山した凄い方です。

712(和銅5)年 古事記が完成

鎌倉:「足鏡別王は鎌倉之別の祖」と古事記に記載

足鏡別王(あしかがみわけのみこ)は「王」と付いているので皇族の一人。父は日本武尊(ヤマトタケル)。※古事記には系図だけ

ヤマトタケル(伊吹山山頂)

ヤマトタケルは父の景行天皇に、西へ行って豪族を押さえろ、東に行って豪族を押さえろと、凶暴な性格で都に置いておくと危ないからと、こき使われた息子。

足鏡別王はそんな父ヤマトタケルと一緒に行動して、京からこの鎌倉まで来たんでしょうか。

12.景行天皇
  ┣--------┳
  日本武尊   13.成務天皇
  ┣--------┳
  足鏡別王   14.仲哀天皇=====神功皇后
                |      
              15.応神天皇(八幡宮ご祭神)

もう一つの日本の歴史書「日本書紀」には、ヤマトタケルの子で足鏡別王の異母兄弟、第14代「仲哀天皇」が父の陵(天皇の墓)の池に白鳥を飼うため諸国に献上するように命じたが、献上途中の白鳥を足鏡別王が見つけて奪ってしまい、キレた仲哀天皇に殺されたと書いてるそうです。

ロクでもない人物なのか、天皇になった兄弟への嫉妬&嫌がらせから来た行動でしょうか・・・。

733(天平5)年 

鎌倉:今小路西遺跡出土の木簡に「天平5年」の文字

正確には「糒五斗天平五年七月十四日」と木簡に書かれていたようです。
奈良時代は紙がとても高価なモノだったので、木の表面に文字を書いて、使い終わったらその木の表面をまた削って再利用していました。

糒(ほしいい)は米を蒸して乾燥させた保存食で、今と昔で違うかもしれませんが、斗(と)は尺貫法の体積の単位。

よく一斗缶とか言いますけど、約18リットルの大きさですね。
5斗だと90リットル。まあ、それなりの量の糒だったということでしょうか。

御成小学校御門

また、今小路西遺跡は今の御成小学校敷地で、奈良・平安時代には鎌倉郡衙(ぐんが|役所)跡の遺構が見つかっていますから、役所の倉庫に於いてある荷物のメモとか、郡衙に送られてきた納税の内容が書かれたものとかだったんでしょうか。

734(天平6)年

鎌倉:杉本寺が創建される(光明皇后の命、行基が創建)

杉本寺は鎌倉で最古のお寺と言われている天台宗の寺院で今の金沢街道沿いに建っています。苔の階段が有名です。

杉本寺と光明皇后|鎌倉最古のお寺は、奈良時代から続く奈良ゆかりの場所
今日は奈良時代にできた鎌倉最古のお寺「杉本寺」から、開山をキーワードに奈良時代の事をちょっと調べてみました。 杉本寺 杉本寺は8世紀建立という鎌倉最古のお寺で有…
1192-diary.com

開山の「行基」は、奈良時代には民の為に橋を作ったり土地を開墾したりして、聖武天皇からも信頼され東大寺大仏造営を手伝いを依頼された人物。鎌倉時代の忍性のような感じでしょうか。

その後、光明皇后が寄進して本堂がたてられたと説明板に書いています。

42.文武天皇                 藤原不比等         
   |          ┏---------╋----┳---┳---┓
45.聖武天皇=====光明皇后(安宿媛)  武智麻呂  房前  宇合  麻呂
       |
    46.孝謙天皇(阿倍内親王)

735(天平7)年

鎌倉:「相模国封戸祖交易帳」に鎌倉郷、荏草郷、尺度郷が記載

これは相模国司が相模国の状況(貴族への給料)を中央政府に報告したもので、この内容を見ると、鎌倉郡-尺度郷・荏柄郷は一品舎人親王の食封、鎌倉郷は従四位下高田王の食封と記録されています。

ちなみに相模国なので、鎌倉以外の藤沢等他の地域も載っています。

食封戸数不輸祖田見輸祖田
一品 舎人親王鎌倉郡尺度郷50戸225町8段27歩57町2段267歩168町5段120歩2528束
荏草郷50戸169町4段236歩41町1段356歩108町2段240歩1624束
従四位下 高田王鎌倉郷30戸135町109歩29町8段109歩105町2段1578束

不輸祖田(ふゆそでん)は、税金が免除されている田んぼ。
見輸祖田(けんゆそでん)は、税金を納めないといけない田んぼ(輸祖田)。

※舎人親王は天武天皇の第6皇子、第47代「淳仁天皇」の父
有名な話としては、父の天武天皇の勅命で「日本書紀」を編纂した人物です。

完成した年が42歳で厄年だったため、松尾寺(大和郡山市)を建立され、今では日本最古の厄除霊場となっています。

40.天武天皇(大海人皇子)            藤原武智麻呂(南家)
 |                        |
舎人親王                    藤原仲麻呂(恵美押勝)
 |                        |
47.淳仁天皇(大炊王)=====粟田師姉=====藤原真従

※高田王は従四位下と位が低いので、かなりの傍系皇族か臣籍降下した皇族と思われます。高田女王?
ちなみに「王」は親王の子、つまり天皇の孫ということですね。

また、昔の鎌倉には7郷あって、代々の場所は下記のような感じです。

沼浜:現在の逗子市市域(沼間の基になったとか)
埼立:長谷、坂ノ下、寺分、町屋、大船、小袋谷地域
荏草:鎌倉南東部一帯
梶原:梶原周辺
尺度:大船から横浜南部(栄区の一部)
大島:横浜市戸塚区付近

鎌倉郷は言わずもがな、今の鎌倉中心部のことでしょう。

鎌倉市の生い立ち|鎌倉市の歴史を古事記から市町村合併の時代まで調べてみた
2019年は、鎌倉市がスタートしてから80周年だそうです。なんか、星と月をかたどったロゴマークも出来上がってますが、鎌倉のスタートは一体いつなのか遡ってみました…
1192-diary.com

736(天平8)年

鎌倉:長谷寺が徳道によって創建

鎌倉に奈良時代からある古刹「長谷寺」

開山の徳道上人は、奈良にある長谷寺の開山でもあって、本尊の十一面観音菩薩像は同じ一本のクスノキの霊木より作られた兄弟本尊。鎌倉と奈良を繋げる面白いお話です。

鎌倉長谷寺

ちなみに、奈良の長谷寺では、鎌倉長谷寺に書いてあるような話には一切触れていません。
相手にされていないのでしょうか・・・。

ただし、境内には鎌倉の有名俳人「高浜虚子」の句碑はあるようです。

749(天平勝宝元)年 天皇が聖武天皇から孝謙天皇へ

鎌倉:正倉院御物の古裂に「鎌倉郡」の記載あり

正倉院御物とは、奈良にある東大寺大仏殿の近くにある、校倉造の高床式倉庫。
東大寺大仏殿を作った聖武天皇やその妻である光明皇后ゆかりの品が格納されています。

東大寺大仏殿

古裂(こぎれ)は、布の骨とう品。

こういうものは海外(唐とか)からの輸入品とばかり思っていましたが、それを参考に日本流にアレンジした物を、鎌倉で作っていたんでしょうか。

実際に機会があれば、年に一回一般公開される正倉院展(建長寺や円覚寺で行われる宝物風入れのイメージで良いかと)で実物を拝見できればと思います。

<おまけ>良弁が開山したお寺

鎌倉とは少し離れてしまいますが、鎌倉にゆかりのある僧侶という説があるので、開山したお寺を時系列に並べてみます。

良弁(689~774年)

天平13年(741年) 聖武天皇が国分寺建立の詔を発せられ前身寺を東大寺にする
天平勝宝4年(752年) 東大寺大仏開眼供養会

天平19(747年) 石山寺開山。聖武天皇の勅願による。

天平勝宝7年(755年) 大山寺開山。


時期不明(奈良時代~平安時代初頭)

鎌倉:洗馬谷戸横穴群(関谷)

通常、このような横穴式古墳は古墳時代(3世紀中~7世紀末、次は飛鳥時代)のモノですが、この洗馬谷戸横穴群(せんばやとおうけつぐん)は、奈良時代から平安時代初め頃だと考えられているようです。

昔は、木々が茂っていて横穴など分からなかったのですが、2024年に伐採されて横穴が見えるようになりました。合計4穴あるらしいです。住宅開発とかじゃないことを祈ります。

以前の洗馬谷戸横穴群

古墳の形態や変遷については、また別のページで詳しくまとめたいと思いますが、横穴の奥には棺を置く大きな空間(玄室)があります。

奈良・明日香にある、高松塚古墳ではその玄室に壁画が書かれていて、色鮮やかな「女子群像」は歴史教科書には必ずと言っていいほど載っているので知っている人も多いのでは。

洗馬谷戸横穴群では、高松塚古墳には敵わないものの線刻画が書いていることで有名です。
男性が舟に乗って盾を持って弓を射あう姿、この付近で領地を守るために戦った人の功績を称えたものでしょうか。

この関谷は高台ですが、その昔、周辺は大船入江と呼ばれる場所があるくらい、海が内陸に入り込んでいた土地柄だったので、線刻画もただの落書きではないでしょうね。

奈良時代の鎌倉をしっかり把握するには、やはり奈良時代の主要人物や出来事は押さえておく必要はありますね!

PAGE TOP