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大江(中原)広元
今回は鎌倉殿13人の一人で、鎌倉幕府の最大の功労者とも言われる「大江広元」についてじっくりと深ぼって纏めてみました。
参考図書は下記です。
一冊丸々、大江広元。
これほどの情報は、鎌倉幕府とか承久の乱とかに絞っている歴史雑誌でも見られない深い情報が、吾妻鏡などを基に纏められています。
大江広元が鎌倉へ来る前、幼少を過ごした京都で何をしていたのか?
なぜ鎌倉幕府でこれほどまでに活躍できたのか?
そんな疑問を解き明かせる一冊かなと思います。
大江広元簡易年表
年代 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1148(久安4年) | 1 | 生誕。別説あり。 実父:大江維光、養父:中原広季で共に摂関家と深い関わりあり |
1170(嘉応2年) | 23 | 権少外記、九条兼実とも仕事で関わりあり |
1173(承安3年) | 26 | 従五位の下、安芸権介(宿官) |
1183(寿永2年) | 36 | 従五位の上 |
1184(寿永3年) | 37 | この頃、鎌倉に下向か?、因幡守 |
1191(建久2年) | 44 | 明法博士、左衛門大尉、検非違使に任じられる 後に、頼朝の圧により役職を辞す |
1200(正治2年) | 53 | 兵庫頭(49)→掃部頭(52)→大膳大夫 |
1225(嘉禄元年) | 78 | 痢病(赤痢の一種)により没する |
職業:外記(げき)
大江広元は小さいときから優秀で、明経生(明経道の学生)の中から成績優秀者が選ばれる「明経得業生」になり、縫殿允(中務少の仕事)へ任官。
その後、権少外記に任じられて太政官での公文書の作成、公務の記録を担当する職業についています。
公文書の作成には、大江広元が小さいころから学んできた知識が必須で適職だったのでしょう。
この仕事で、摂関家・右大臣「九条兼実」の所へ訪れて指示を仰いだりしています。
若いころの京都での仕事で、鎌倉幕府にとって重要な人脈や公務事務などを身に付けていたはずです。鎌倉幕府を長年支えてきただけあって、やはり優秀な人材だったんですね!
兄・中原親能(なかはら ちかよし)
大江広元の異母兄。
実父:藤原光能、母:中原広季(広元の養父)の娘
外祖父の広季の養子となり中原姓を名乗った。
幼少期に、波多野経家(はたのつねいえ|相模国の武士)の許で成長し、源頼朝とは長年の知り合い。
外記としての広元のキャリアを知っている親能の推薦によって、頼朝から招かれた。
大江広元も中原親能も両方、中原広季の養子で兄弟になったということ。血は繋がっていないもよう。
※中原広季の実子という説もある
大江広元の子孫
大江広元の子孫で有名な人物といえば、法華堂で大江広元の横にお墓まで作られている、戦国大名毛利氏の祖、4男季光。(このお墓は毛利氏が作ったとされるので当然でしょうが・・・)
大江広元には7男4女いたようですが、三浦一族のように一族団結という感じは見られず、上皇側に付いたり、京都に留まったり、僧侶になったりと、バラバラです。
しかしそのおかげで、大江一族が滅亡なんてことが避けられたのも一つあると思われます。
– | 名前 | 名字 | 概要 |
---|---|---|---|
長男 | 親広 | 承久の乱で後鳥羽上皇側について敗れる。 出羽国寒河江荘へ流罪、後罪を許され、子孫が寒河江荘地頭職を継ぐ | |
次男 | 時広 | 長井 | 兄に変わって広元流大江氏の嫡流 京都に基盤を置く御家人、在京武士の自負はかなりのものだっととか |
三男 | 宗元 | 那波 | 上野国那波荘に由来 |
四男 | 季光 | 毛利 | 承久の乱では東海道軍に属する、関東評定衆、娘は北条時頼嫁 宝治合戦で三浦氏に属し大打撃を受け、4男経光のみが死を免れ戦国大名毛利氏へ |
? | 尊俊 | ー | 園城寺の僧侶で大僧都 |
? | 忠成 | 海東 | 歌人、尾張国海東郡に由来か? |
? | 重清 | ー | 広元の猶子 |
ちなみに戦国大名の毛利氏の祖となった四男季光が名乗った「毛利」ですが、相模国下毛利(しももり|現厚木市)荘が名の由来なっています。
大江広元ゆかりの地
大江広元邸址
鎌倉にある大江広元邸址については二つの場所があります。
1.大蔵御所周辺
吾妻鏡等によれば、横大路(現金沢街)を挟んで将軍御所(大蔵御所)と向かい合っていた場所にあったようです。現在は、それを示す案内板や石碑などは一切建っていません。
承久元年(1219)正月7日 「鎌倉御所近辺」の広元邸が全焼
などの記述が吾妻鏡に見られるようです。
この周辺には、畠山重忠邸、八田知家邸もあり、大江広元とはご近所さんだったようです。
2.六浦道沿い
この場所は大江広元の墓(天園ハイキングコース)が近くにあることから、こちらの大江広元邸址は、江戸時代になって生まれた伝承の可能性があるようです。
正治2年(1200)に、2代将軍源頼家が「後山麓」に新造された広元邸の屋を訪れています。
山水あり。立石あり。納涼逍遥の地なり
吾妻鏡
どうやら、十二所にある大江広元邸あとは、上記も根拠の一つになっていそうですが、確たる史料は一切ないとのことです。
大正~昭和にかけて建てられた旧跡碑はこちらの六浦道沿い(明石橋交差点付近)に建っています。
大江稲荷神社
また、この近くには大江広元を祀る小さな神社「大江稲荷神社」も建っています。
大江広元の墓
鎌倉市には大江広元墓とされる場所が二か所あります。
1.法華堂跡(北条義時墓奥)
こちらが鎌倉市が建てた案内板もあって、有名な大江広元の墓です。
大江広元を祖とする、戦国大名毛利家に関係する人が、宝治合戦において法華堂で自害した毛利季光に関連して作ったと考えられています。時代は江戸時代でしょうか?

2.天園ハイキングコース途中
六浦道の奥にある「明王院」から天園ハイキングコース(瑞泉寺道)へ合流する間にある五輪塔。
こちらも大江広元墓と伝わっていますが、根拠となる資料とかはありません。

ここにお墓があるということから、六浦道(明石橋交差点)沿いに大江広元邸址があったと、旧跡碑が建てられたようですが、お墓自体が伝承なので、もう何が正しいのか分かりません。
大江一族の宝治合戦
大江広元が無くなってから20年以上も経過した1247年、三浦一族と北条&安達連合軍が争った宝治合戦が起きました。
広元の子孫でメイン人物になるのは、大江季光(広元4男)。
妻は三浦泰村の妹で三浦一族の縁者。娘は北条時頼に嫁ぐという微妙な立場です。
娘婿の時頼(&安達軍)に味方しようとするも、妻に「三浦一族を裏切るとは武士のすることではない」と言われ、三浦泰村の陣へ合流。結果、鎌倉北条氏に敗れて、法華堂(頼朝墓所)にて自刃。
季光の4男「経光」のみ死を免れて、越後国佐橋荘へ、その子孫が、安芸国吉田荘に拠点を移し戦国大名毛利氏となりました。