今回は英勝寺の前に建てられている「太田道灌邸旧跡」の石碑を読んでみることにしました。
いつもより文章が長かったので、なかなかキツかった(汗)
この石碑は、太田道灌は当然のこと、英勝寺とか開基の英勝院などの基礎知識があったほうが読みやすいので、まずは下記のページを見てもらった方が良いと思います。
太田道灌が出てくる漫画もあります。
北条早雲を主人公にした歴史漫画「新九郎奔る」です。
目次
太田道灌邸舊蹟(旧跡)
太田道灌邸旧跡の石碑場所
石碑の書かれている文字は?
此ノ地ハ武略文藻兼ネ備ヘ忝クモ『武蔵野は萱原の野と聞きしかとかかる言葉の花もあるかな』テフ叡感ニサヘ預リタル道灌太田持資ガ江戸築城前ノ邸址ナリ寛永十一年令ノ英勝寺ト為ル其ノ創立者水戸藩祖頼房ノ准母英勝院ハ道灌ノ嫡流太田康資ノ女ナルヨリ晩年将軍家光ヨリ特ニ此ノ地ヲ授リテ之ニ住スルニ至レルナリ『孤鞍雨ヲ衝イテ茅茨ヲ叩ク少女為ニ遺ル花一枝』ノ詩趣アル逸話ハ道灌ガ壮年猶此ニ在リシ日ニ於テ演ゼラレシ所ノモノナリ
大正十年三月建之 鎌倉町青年會
この場所は、武略文才を兼ね備え、恐れ多く「武蔵野は~花もあるかな」と詠まれ、天皇のお褒めに預かる太田道灌が、江戸城を築城する前に住んでいた場所。
1634年(寛永十一年)に英勝寺となる。
英勝寺の創立者である、初代水戸藩主「徳川頼房」の養母「英勝院」は、太田康資の娘だったので、晩年、3代将軍の「徳川家光」よりこの地を貰い住むことになった。
「孤鞍雨ヲ~花一枝」の趣ある逸話は、太田道灌が壮年ここに住んでいた時の話である。
大正10年3月これを建てる 鎌倉町青年会
※間違ってたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
文藻(ブンソウ) → 文才。詩歌・文章を作る才能
忝ク(かたじけなく) → もったいない、恐れ多い 等
叡感(えいかん) → 天皇や上皇が感心してほめること
准母(じゅんぼ) → 養母、内親王
「忝」は漢字検定1級の内容らしいです。そりゃ知りませんて(汗)
事前知識(歴史編)
寛永十一年
1634年。寛永(かんえい)。1624年~1645年。
前元号は「元和(げんな)」、次元号は「正保(しょうほう)」
道灌太田持資
太田道灌のこと。
室町時代の武将・歌人。名:持資(もちすけ)、法名:道灌(どうかん)
太田康資
1531-1581年。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。英勝院の父という説がある。
太田道灌「山吹の里」伝説
太田道灌に関しての有名な漢詩があって、この漢詩の前半部分が石碑にも使われています。
題太田道灌借蓑図
孤鞍衝雨叩茅茨 少女爲遺花一枝 少女不言花不語 英雄心緒亂如絲
孤鞍 :転じて一人馬に乗って行く人
茅茨 :茅葺の小屋
花一枝:山吹の花の一枝
自分(道灌)の和歌の知識や風流に対する感性が足らず、少女の行動の意味を汲むことが出来なかったことを痛感して、これ以降、太田道灌が歌の勉強に励むきっかけになったという、有名な漢詩ですね。
これは現在にも通じる話。
鎌倉を歩くにしても、ある程度知識があったほうが、いろんな意味や背景等を汲むことが出来て、知識が無い人よりも楽しめますからね。
山吹の里伝説の場所
ところで、太田道灌が鷹狩りの途中で立ち寄った、その貧しい農家はどこなんでしょうか?
東京都荒川区の「日暮里駅」の前に、太田道灌像が立っていました。
この山吹の里伝説の場所はいろいろあるみたいですけど、この日暮里駅周辺もその一つのようですね。
下右の女性の手には山吹の花が乗ってます。
太田道灌と山吹の里伝説を知っている人のみが楽しめる銅像ですね!
知らない人はスルーでしょう。
太田道灌の和歌力
太田道灌は1464年に上洛しています。道灌、32歳頃。
そして、8代将軍「足利義政」に会い、その後「後土御門天皇」にも拝謁しています。
そこで、後土御門天皇に「武蔵野ってどんなところ?」って聞かれたので、和歌で即興で答え、その後の天皇からの質問すべてに即座に和歌で答えて、天皇はとても驚いて、下記の歌を詠まれたと。
『武蔵野は 萱原の野と 聞きしかと かかる言葉の 花もあるかな』
石碑の初めの方に書かれている和歌ですね。
武蔵野って萱(かや)ばっかりの土地と思っていたけど、歌を聞いて花が咲くように思った。
太田道灌の歌を聞いて、時の天皇が考えを変えられたというお話だそうです。
YouTube(源氏山公園)
途中に「太田道灌の墓」があります。