磨墨(するすみ)
名馬「磨墨」は、ライバル馬「池月」と共に、木曽義仲の討伐戦の宇治川の戦いで、先陣を競い合った名馬です。(宇治川先陣物語)。騎乗は梶原景季。
元々、持ち主は鎌倉殿(源頼朝)だったので、「するすみ」の紋所は「源氏ササリンドウ」。
池月・磨墨ゆかりの地
名馬磨墨像の場所
磨墨像は大田区南馬込にある萬福寺の入口(境内)入ってすぐ左側に建てられています。
磨墨像のある萬福寺は、室町時代に火災に遭って今の場所に再建されたようですが、現萬福寺がある大田区の馬込一帯は丘陵台地で馬の放牧が盛んで、「するすみ」が馬込の産と伝わっているようで、その関連から像が立てられたと考えられます。
萬福寺
萬福寺の開基は、鎌倉幕府の御家人「梶原景時」です。
建久年間(1190年)頃源頼朝の命で創建したと伝わります。
寺紋が鎌倉御霊神社(坂ノ下)と同じ「丸に並び屋」です。まさか鎌倉党の人物にこんなところで出会えるとは。
磨墨塚(磨墨埋葬地)
萬福寺から少しはなれた場所(大田区南馬込3-18-21)の住宅街にひっそりとある塚。
環七通りから西へ坂道を登った場所にありますが、案内板も特になくてスルーしがちな場所です。
磨墨塚は、景季の愛馬「磨墨」を埋めた場所との言い伝えがあり、明治33(1900)年に馬込村の有志によって石碑が建立されました。
この磨墨塚の周辺は台地になっていて、環七に向かって下り坂になっています。
今は道路でなだらかですが、昔は谷のようになっていたと歩けば感じれると思いますし、「磨墨」が落命した「駒落の谷」、「磨墨」が鐙を落としたという「鐙坂」などの地名も良く分かります。
梶原源太景季
梶原源太景季は、頼朝の非常に重用された鎌倉幕府の御家人で、頼朝死去後は鎌倉殿の13人(十三人の合議制)の一人に選ばれた、梶原景時の嫡男です。
梶原景季も、源頼朝の家子として、頼朝の信頼厚い御家人で、平家追討などで武功を挙げています。
宇治川の先陣争い
寿永3年1月20日、木曽義仲軍と源義経軍は宇治川で合戦。(木曽義仲の追討)
冷たく流れの強い宇治川に馬を乗りいれた、磨墨に乗った梶原景季と、池月に乗った佐々木高綱が先陣争いを演じた。
結果は、池月に乗った佐々木高綱が先陣争いを制することになります。
ライバル馬「池月(いけづき)」
頼朝が「磨墨」が生まれた馬込からほど近い洗足池で先に手に入れた「池月(いけづき)」
「平家物語」によれば、磨墨に乗っていた「梶原景季」は、本当は「池月」が欲しくて頼朝にお願いしたが、「この馬は万が一の時に自分が乗って出陣するときの馬だ。代わりに磨墨はどうだ?池月に劣らない馬だぞ」
と、許してくれずに代わりに「磨墨」を貰って、それに乗り、木曽義仲追討に向かった。
木曽討伐軍の中に、磨墨より良い馬は居ないなと、満足気な梶原景季の目に「池月」が。
「誰の馬か?」と、郎党に聞くと「佐々木高綱」の馬だと言う。
「義仲四天王と勝負して死ぬか、西国で平家の侍と戦って死のうと思っていたが、殿(頼朝)が自分から佐々木へ思いを変えられたのでは、そんなことをしてもしょうがない。
高綱と刺し違えて有能な侍が二人死んで、殿に損をさせてやろう」
と高綱を殺そうとしたが、高綱は冷静に「景季殿が所望してダメだった馬を、自分が殿に頂けるはずはない、これは盗んだのだ」と返答。
「自分も盗めば良かった」と笑った景季だった。
大井競馬場
池月と磨墨に所縁がある大田区。
その大田区のお隣品川区にある「大井競馬場」で秋ごろに開催されるのが「池月・磨墨賞」
重賞レースでは無いので、それほど目立っていませんが、レース名になってしまうので馬ファンにとって、池月・磨墨は有名なのかもしれません。