源義経|頼朝から勘当される晩年の義経、そして死後の伝承まで

源義経|頼朝から勘当される晩年の義経、そして死後の伝承まで

2022-03-04

源義経(みなもと の よしつね)

1159-1189

源頼朝の異母弟。別名には、九郎、判官、廷尉、予州など。

一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした最大の功労者も、頼朝の意向に反する行動が絶えず怒りを買い対立し、最後は朝敵となった。

最後は奥州に逃れたが、奥州藤原氏第4代当主「藤原泰衡」に攻められて自害した。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源義経役を菅田将暉さんが演じられます。

源義経の簡易年表(晩年)

時期年齢出来事
平治元(1159)年0誕生(義朝9男、母は常盤御前
元暦2(1185)年
 5月
満福寺(鎌倉)にて腰越状を書く
元暦2(1185)年
 11月
頼朝に追われ大物浜から船出を試み失敗。
吉野に身を隠すも、静御前(妾)が取らえられて鎌倉へ
文治3(1187)年29京都に居られなくなったため、藤原秀衡を頼り奥州へ
文治5(1189)年
 閏4月
31藤原泰衡に攻められ自害
 6月義経の首が奥州から送られ、腰越浦で首実験が行われる
義経の首が、境川を流れて白旗神社へ到着(伝承)

腰越状を頼朝に送る

元暦2(1185)年 5月24日

義経は平宗盛(前内府)を連れて鎌倉へ来たが、鎌倉中に入ることを許されず、腰越で日々を送ったが、愁いのあまり、大江広元(因幡前司広元)を通じて一通の詫び状(腰越状)を送った。

広元は頼朝に書状を見せたが「追って考えよう」をだけ言った。

大物浜から西海への渡海失敗

元暦2(1185)年11月6日

源行家、義経が大物浜で乗船した時、暴風が吹き荒れ船を襲ったため渡海を取りやめた。味方が散り散りになり、義経に従う人は、源有綱(源頼政の孫|義経の女婿)、堀景光(子飼いの郎党)、武蔵坊弁慶、静(妾)の四人になった。

※参考図書:「義経の女」 山本周五郎

藤原秀衡が亡くなる

文治3(1187)年10月29日

藤原秀衡入道が陸奥国平泉館にて亡くなった。
源義経(伊予守)を大将軍として、陸奥国の国務に当たることを息子の泰衡に遺言した。

藤原泰衡が義経を襲撃

文治5(1189)年 閏4月30日

本日、天皇の命と頼朝の意向により、陸奥の国で藤原泰衡が義経を襲撃した。
泰衡の兵数百騎が義経の衣河館を襲い、頼朝の家人らは防戦したが、全員敗北した。

義経は持仏堂に入り、22歳の妻と4歳の娘を殺害、そして自害。享年31才。

腰越浦にて義経の首実験

文治5(1189)年 6月13日

義経が殺害されてから約一か月半後。
藤原泰衡の使者「新田高平(秀衡四男?)」が、義経の首を持って腰越浦に持参した。

首実験をするため、和田義盛梶原景時が遣わされた。

首は黒漆の櫃に納めて美酒に浸され、高平の従者2人が担いできた。様子を見に来た人たちは皆、涙を拭いて両袖を濡らした。

源義経周辺の系図

義経の父「源義朝」には9人の男子がいます。

                   |
   由良御前(正室)=======源義朝=========常盤御前
 ┏---┬------+------┬-----┤
 |   |      |      |     ├----┬----┐        
源義平  朝長     頼朝     範頼   全成   義円   義経
            ├---┐
            頼家  実朝

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください。

正室の由良御前から生まれたのが「源頼朝」
妾の常盤御前から生まれたのが「源義経」です。頼朝とは異母兄の関係になります。

義経の同母兄弟

同母兄弟には、阿野全成源義円がいます。
源義円は源平墨俣川の合戦で命を落としました。

源平墨俣川古戦場|義経の兄「義円(乙若丸)」が戦死した源平合戦の一つ
源平墨俣川の戦い(治承・寿永の乱) 治承5(1181)年3月10日長良川をはさんで源平の大激戦が展開されたのが、源平墨俣川の合戦。 源氏方の中心人物は、源行家(…
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源義経関係の系図

                           比企尼
                            |
              源義朝   河越重頼===河越尼(次女)  源頼政
               |      |              |
   静御前(妾)=====源義経===郷御前(正室)         源仲綱
           |   |                     |
           男児  女児(養女?)==============源有綱

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください。

静御前との男児

文治2(1186年)7月29日

出産するまで鎌倉に留め置かれた、静御前が男子(義経の子)を出産した。

今、義経は謀反を企てて逃亡しているので、子が女子なら母に与えられ、子が男子なら将来を恐れずにはいられない為に幼少の時に命を断つのが良いと頼朝は決めていた。

これに寄り、本日、安達清経(頼朝の雑色)に命じにて赤子を由比浦に棄てさせた。(吾妻鏡より)

源義経ゆかりの地

義経宿陣之跡(萬福寺)

平宗盛を連れて今日から鎌倉へ来たものの、頼朝から鎌倉の中へ入ることを拒否され、義経は腰越(満福寺)でしばらく逗留し、心情を綴った「腰越状」を書いた。

義経宿陣之跡|鎌倉へ入れない源義経、腰越状で有名な満福寺(石碑を読む)
今回は腰越の満福寺にある「義経宿陣之趾」の石碑を読んでみました。 石碑の多くは鎌倉中心部にあるのですが、腰越っていう鎌倉から結構離れた場所(今でもすぐ横が藤沢市…
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大物浜(兵庫県尼崎市)

兄頼朝から追われ京に居られなくなった義経は、舟で逃れようとした場所、大物浜

大物浜(兵庫県尼崎市)|兄頼朝から逃れるために船出を図った、源義経ゆかりの地
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伝 義経首洗井戸

腰越での首実験の後、浜に棄てられた義経の首は境川をさかのぼり、里人に拾われてこの水で清められたと伝わる井戸。

白旗神社(藤沢市)

義経の首が、境川-白旗川を遡りたどり着いた場所に建つ神社。
頼朝の命で、白旗明神としてこの神社に祀るようになり、義経がご祭神の神社となった。

御霊神社(茅ケ崎市)

元々は、この一帯を治めていた懐島景義が鎌倉権五郎景正の霊を祭ったことが始まり。
源頼朝が稲毛重成が造った相模川の橋供養の帰路に、兄頼朝に殺された、弟義経の亡霊が現れて、それが原因で頼朝が驚き落馬して死去したとされた。

そのため、義経の怨霊を鎮めるために合祀。鎌倉権五郎景正と源義経の2柱が祀られている神社です。

弁慶塚(茅ケ崎市)

上記の御霊神社の近く(といっても500mくらい離れているか?)に、弁慶塚があります。こちらも義経の怨霊説に伴い、その一味だった弁慶塚を霊を慰める為に建立したと伝わっています。

今は、住宅街と駐車場の中にポツンと建っています。

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