梶原景時|都の貴族にも一目置かれた頼朝の寵臣、讒言者で有名

梶原景時|都の貴族にも一目置かれた頼朝の寵臣、讒言者で有名

2021-08-22

梶原(平三)景時(かじわら かげとき)

1140?-1200。侍所所司。
平家軍に属しながら石橋山の戦いで頼朝と見逃し、後に頼朝の寵臣へとなる。

梶原景時の通称「平三」は、平氏の三男と言う意味。
姓と生まれ順を組み合わせて通称とする場合で、中原氏の長男「中太」や藤原氏の次男「藤次郎」と同じ事。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、梶原景時役は「中村獅童」さんが演じられます。

梶原景時の簡易年表

時期年齢出来事
保延6(1140)年0誕生。
景時が平忠盛(清盛の父)の目代として、尾張国府に下向赴任
治承4(1180)年41石橋山の戦いでは大庭景親と共に頼朝征伐に。
敗走し、土肥実平と山中に逃れていた頼朝を見逃した
養和元(1181)年42頼朝と対面し御家人となる、侍所所司(次官)に任命
寿永2(1183)年44頼朝の命で、謀叛の噂があった上総広常を双六中に誅殺
寿永3(1184)年45宇治川の戦いに参陣。
一ノ谷の合戦で範頼の大手軍に属する
元暦元(1185)年46屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに参加。
頼朝への戦況報告で義経の独断と放漫を報告(梶原景時の讒言、逆櫓の論争
文治5(1189)年50奥州合戦に景時父子も参戦。
建久元(1190)年51頼朝の右近衛大将拝賀随兵の7人の内に選ばれる
建久3(1192)年53和田義盛に代わって侍所別当に就任
正治元(1199)年60頼朝死後、十三人の合議制の一人となる
結城朝光の言ったことを、頼家の誹謗であると讒言し、御家人の怒りを買う
正治2(1200)年61梶原景時の最後
相模国一宮から上洛する途中に、駿河国の在地武士に襲われ自害

景時の優秀な戦況報告

寿永3(1184)年 正月27日

つい一週間前に木曽義仲を討伐したことを報告する飛脚(安田義定、源範頼、源義経、一条忠頼ら)が鎌倉に到着した。

頼朝が使者から詳細を聞いているところに、梶原景時の飛脚も到着。

景時の飛脚は、討ち取った人々や囚人らの名簿を持参していた。他からの使者は参上したが名簿は持参していなかったので、景時の配慮は全く持って素晴らしいと、頼朝は感心されること再三だったという。

愚管抄から

愚管抄とは、九条兼実の弟で天台宗の僧侶「慈円」が書いた鎌倉時代初期の史論書。巻1~7まで。
愚管とは私見の謙譲語。

巻6 頼朝の上京(上総広常の誅殺)

源頼朝が1190年にようやく上洛し、鎌倉へ下向する前日に院に参上し後白河法皇と対面。
上総広常を討ち取った理由を話したことが書かれたのち、詳細が書かれています。

命を受けた梶原景時助八郎(上総広常)を殺したのだが、景時は広常と双六をしていたが、景時が双六の盤の上をさりげなく越えたと思う間もなく、広常の首はかき切られ頼朝の前に差し出された

梶原一族の系図

梶原氏は、桓武平氏良文流の流れを汲む鎌倉氏です。
当時から鎌倉周辺を根拠とし、大庭氏、長尾氏、俣野氏、とは親戚関係にあります。

村岡良文
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 ├---------┐
鎌倉章名       三浦為通
 ├---------┬----------------┬
 景成        景村                 景通
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           景明               梶原景久 ← 梶原氏の祖
           ├----------┐     |
          大庭景宗       長尾景弘   梶原景長 
           ├---┐      ├     |
          懐島景義 大庭景親  長尾定景   梶原景清 
                            |
                            梶原景時
                            ├
                            梶原景季

梶原景時周辺の系図

梶原景時には、頼朝の家子に任じられた梶原景季などがいます。
が、1200年の梶原景時の変で景時が多くの御家人から排斥。その結果、一族が連座して討たれてしまいます。

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梶原景清 
 ├------------------┬
梶原景時                朝景
 ├------┬-----┬-    |
梶原景季    景高    景茂    景貞
 |      |     |
 景望     景親
      [羽黒梶原氏]

梶原一族ゆかりの地

鎌倉市梶原

建長寺(鎌倉市山ノ内)

▶ 神奈川県鎌倉市山ノ内8 | 🅿あり | 拝観料500円 | 公式HP |

梶原山門施餓鬼会

7月15日 建長寺では通常の施餓鬼会に加えて、梶原景時の亡霊を弔うために、再度、施餓鬼会を行うのがしきたりとなっています。

梶原井戸(鎌倉市十二所)

鎌倉時代の梶原景時の館跡と、いろんなHPに書いていますが本当かどうか分かりません。
梶原景時の変で、鎌倉を追い出された後に、家は打ち壊されました。

明王院の手前を左に曲がり鎌倉グリーンテニスクラブの道を道なりに。
突き当りは、建築関係の工場の私有地で立ち入り禁止のロープが張られていますが、その左側です。

小さな祠のようなものと、その少し手前に井戸(掘られた穴)があります。草が生い茂っていて分かりにくいです。

梶原景時館跡(寒川町一之宮)

一之宮小入口交差点に隣接する、小さな一之宮天満宮の境内が梶原景時館址です。
周辺は、大きな道路が交差して開発が進み、鎌倉時代当時の面影は全く残っていません・・・。

案内板には、土塁、内堀などの伝承地が周辺にあるようです。
車と止めるスペースが数台あります。電車なら最寄り駅はJR相模線「寒川駅」。そこから約1km弱です。

伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓

上記の梶原景時館から歩いて300mほど離れた場所にあります。
梶原景時一族郎党か家臣7人かどちらかの説があるようですが、鎌倉時代当時も留守居役ってあったんですね。

萬福寺(梶原景時の墓)

建久年間(1190年頃)に源頼朝の命で梶原景時が大檀那となって梶原家相伝の阿弥陀如来三尊仏を本尊として、大井丸山に建立したのが始まり。

元応二年(1320年)に火災にあい、景時の墓所のある馬込へ移され再建されました。

梶原稲荷神社

上記の萬福寺が、移設前の大井丸山にあったとき、境内に守護神として稲荷を勧請して梶原稲荷と呼んでいた。
兵火にて焼失した萬福寺は馬込村(現在)に移されたが、梶原稲荷神社は最寄りの来福寺に奉納されたと。

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