千葉常胤|頼朝に父のように頼られた、千葉氏中興の祖、千葉六党の父

千葉常胤|頼朝に父のように頼られた、千葉氏中興の祖、千葉六党の父

2021-09-03

千葉常胤(ちば つねたね)

1118-1201。
千葉家中興の祖。鎌倉幕府の有力御家人。別名「千葉介」。
千葉六党と言われる6人の子息たちと共に源頼朝を支える。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、岡本信人さんが演じられます。

千葉常胤の簡易年表

時期年齢出来事
元永元(1118)年0誕生(父は千葉常重)、※平清盛生まれる
大治元(1126)年9千葉常重、常胤親子、大椎から千葉へ館を移す
保元元(1156)年39保元の乱。
源義朝に従い源氏との結びつきを強める。
治承4(1180)年63頼朝の挙兵に応じて参陣(使者は安達盛長
寿永元(1182)年65頼家誕生を祝う「七夜の儀」を取り仕切る
元暦元(1184)年67平氏追討
源範頼勢として西国へ出発
文治5(1189)年72奥州合戦
八田知家と共に東海道大将軍(太平洋岸)として参加。
建久元(1190)年73頼朝の上洛に後陣を任される。
建仁元(1201)年84死去。

頼朝の死後、13人の合議制が決められた1199年は、すでに常胤82歳。
鎌倉幕府の宿老格ではありましたが、あまりの高齢の為に選ばれなかったか、断ったのでしょうね。

幕府の宿老

幕府の宿老とは、鎌倉幕府の成立に貢献した者のうち、十分に経験と年功を積んだ人物のこと。

建久元(1190)年、頼朝の上洛年に宿老だったと思われる御家人は、
千葉常胤三浦義澄土肥実平小山朝政三善康信岡崎義実足立遠元安達盛長

頼朝は上洛の後陣の人選に悩んで、八田知家に相談を持ち掛けたところ、即座に「常胤こそ宿老で後陣に最もふさわしい」と推薦したので、起用が決定したと言われています。

吾妻鏡より・・・

頼朝から父と呼ばれる

治承4(1180)年 9月17日

千葉常胤は子息、太郎胤正次郎師常、三郎胤成、四郎胤信、五郎胤道、六郎胤頼、嫡孫胤等を伴って、下総の国府に行き、源頼朝と合流した。従う軍勢は300余騎。

頼朝は常胤を座右に招いて

「これからは司馬(千葉常胤)を父のように遇したい」と言った。

※司馬とは国司の三等官(掾)の唐名。

正月に大盤振る舞い

治承5(1181)年正月1日

埦飯(おうばん)は、頼朝と御家人たちの主従関係を確認するための饗応で、食事を献上する大切な儀式。大盤振る舞いという語源になったと言われています。

特に年始埦飯は、幕府が新年を迎えたことへのお祝いを表すため、正月から連日のようにいろんな御家人が埦飯を沙汰し、正月からの埦飯順が、頼朝の御家人への信頼順とも考えられるかもしれません。

1191年(建久2)での埦飯

毎年正月には有力御家人の埦番合戦が始まります。
多くの御家人の中でも千葉氏が元旦を担当することが多かったようです。

正月1日 千葉介常胤が埦飯を献上した
正月2日 三浦介義澄が差配して埦飯が行われた
正月3日 小山右衛門尉朝政が埦飯を献上した
正月5日 宇都宮左衛門尉朝綱が埦飯を献上した

上記のような御家人格付けは面白いですね!

千葉常胤周辺の系図

上総広常とは又従兄弟の関係です。

※携帯(スマホ等)で見る場合は横長にしてご覧ください

平常永
 ├------┐
上総常晴   平常兼
 |      |
上総常澄   千葉常重
 |      |
上総広常   千葉常胤===秩父重弘娘
      ┌-----┼-----┬-----┬------┬-----┬----┬-------┐
     千葉胤正  相馬師常  武石胤盛  大須賀胤信  国分胤通  東胤頼   日胤    葛西清重
       [千葉六党]                             [園城寺僧]

千葉常胤は、源平合戦・奥州合戦での功績で、日本各地に所領を得たため、それらの所領は6人に継承され「千葉六党」と言われています。

六男の東胤頼は挙兵前から頼朝と面識があり、七男の日胤(にちいん|園城寺の僧)は頼朝の祈禱僧だったようで、頼朝が房総に逃れた後に千葉氏を頼ったのも当然の流れでした。

千葉六党

本家の家督を継いだのは、長男の「千葉胤正」です。

千葉氏ゆかりの地

千葉神社

千葉市の居城だった亥鼻城の近くにある、千葉一族郎党の守護神とした妙見様を祀る神社。
千葉氏の祖である、平良文が戦いのたびに妙見様に祈願して、ご加護を頂いて常に勝利を収めていたことによるそうです。

君待橋・白幡神社・お茶の水

頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房へ逃れてから、房総、武蔵を通って、鎌倉へ入府するまでに通った下総千葉の地。ここには、頼朝ゆかりの場所がいくつか伝わっています。

千葉市内の頼朝伝説|源頼朝が立ち寄ったとされる、君待橋・白幡神社・お茶の水を巡る
石橋山合戦敗北後の源頼朝の軌跡 石橋山の合戦に負けて安房へ逃れた頼朝は、安房国から下総国府に向かった。千葉氏はその途中にあり、頼朝は千葉を通過した可能性が高く、…
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下総総社跡(下総国府)

治承4(1180)年 9月17日、源頼朝と千葉常胤をはじめとする千葉氏が合流した場所が下総国府です。
現在の千葉県市川市にあったとされて、下総国府の近くにあった六所神社跡の碑が国府台公園に設置されています。

大日寺

千葉中心街から少し離れた場所にある大日寺
ここには千葉家16代の廟所があり、千葉氏ゆかりのお寺になっています。

大日寺|千葉市重要文化財「史跡千葉家十六代廟所」がある千葉氏ゆかりの寺院
今回は千葉氏ゆかりのお寺、大日寺を深堀していきたいと思います。 大日寺年表 年代出来事人物等1254年(建長6年)松戸の馬橋に創建(開山:忍性)千葉頼胤1284…
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千葉ヶ谷(鎌倉市扇ガ谷1)

鎌倉歴史文化交流館の入口付近にある旧地名の「千葉ヶ谷
名前の通り、千葉氏の鎌倉での邸宅があったと言われています。

【案内板】鎌倉の旧地名
最近、鎌倉市内に設置され始めているのがこの「鎌倉の旧地名」案内板。 クラウドファンディングとか使わずに設置していて、鎌倉市のHPでも設置場所は公開されていません…
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弁谷(鎌倉市材木座)

鎌倉市材木座の分かりにくいところに「弁谷(べんがやつ)」の石碑が建っています。

今は廃寺となっている北条高時ゆかりの崇寿寺が有った場所と言われていますが、他にも千葉氏の屋敷「別駕谷」が弁谷になったとも。

※官職とされる下総介の「介※」の唐名「別駕」

辨谷|千葉常胤ゆかりの地?静かな材木座地区の知られざる過去(石碑を読む)
今回は材木座にある谷戸の一つ、住民じゃないと知らないんじゃないかと思う場所にある「弁谷」の石碑を見つけたので、読んでみることにしました。 辨谷(弁谷|べんがやつ…
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