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鎌倉幕府6代将軍「宗尊親王」
鎌倉幕府の将軍は3代の源実朝で源氏が途絶えてから、執権北条氏の傀儡のような感じになってしまい影が薄いですが、いい機会なのでちょっと深掘ってみました。
父親
「後嵯峨天皇」
兄弟と母
典侍:宗尊親王(1242年生)
中宮:後深草天皇(1243年生) ※亀山天皇とは同母
中宮:亀山天皇(1249年生)
宗尊親王の方が年上なのですが、母親の身分が低いので皇位継承は絶望的だったんですね。
だから、親王将軍として鎌倉へ下ったと。
宗尊親王の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
仁治3(1242)年 | 0 | 誕生 |
建長4(1252)年 | 11 | 鎌倉へ下向。征夷大将軍。 |
建長5(1253)年 | 12 | 藤原仲能を本願主として、海蔵寺の前身寺を建立する。 |
康元2(1257)年 | 16 | 大慈寺(新御堂)の改修。 北条時宗が宗尊親王の御所で元服。 |
文永3(1266)年 | 25 | 謀叛の疑いで京へ強制送還 |
文永9(1272)年 | 31 | 二月騒動と御嵯峨天皇(父)崩御のため出家 |
文永11(1274)年 | 33 | 死去 |
鎌倉へ来てからの14年間。
北条氏が専制体制を敷いていたので将軍には何の権限もなくて、和歌に打ち込んだようですね。
そのため、同じく、和歌将軍だった3代「源実朝」には強い思い入れとか親しみ、尊敬の気持ちが有ったと思われ、大慈寺の改修も力がはいったのかもしれません。実朝と宗尊はセットです。
吾妻鏡の最後を飾る
ちなみに吾妻鏡は、この宗尊親王が鎌倉から京都へ追放されて、京都に到着したのを最後に終わります。
文永3(1266)年 7月4日
戌の刻(20:00頃)に、宗尊親王が北条時盛(越後入道勝円|佐助流北条氏)の佐介(佐助谷)の邸宅に入られた。帰洛のための御出門という。
同年 7月20日
晴れ、戌の刻(20:00頃)に、宗尊親王(前将軍家)が京都に入られ、北条時茂の六波羅の邸宅に到着した。
宗尊親王ゆかりの地
大慈寺跡
源実朝が建立した大慈寺跡(新御堂)には、石碑が建っています。
常栄寺
日蓮上人にぼたもちを差し出した人物は「桟敷尼(さじきに)」さんで有名ですが、その夫は宗尊親王の家臣だそうです。
本蓮寺
宗尊親王が京へ強制送還される前に立ち寄って、別れの歌会があった時に読まれた歌が刻まれた石碑があります。
帰り来て 又見ん事も 固瀬川 濁れる水の すまぬ世なれば
「もう、鎌倉には帰れないだろうなぁ。権力闘争で汚れた鎌倉には。」って感じでしょうか・・・。
固瀬川は、今の片瀬川でしょうか。
昔の鎌倉の端の方だと考えています。
福田寺(京都市)
文永元(1264)年に宗尊親王によって創建されたお寺です。
1264年は宗尊親王が京都へ送還される2年前のこと。
もともとは京都東山にあったそうですが、一遍上人により時宗に改宗され、後に場所もここへ移されました。