今回は、日本の神話の世界でも、かなり有名な部類に入る「日本武尊(やまとたけるのみこと)」について、鎌倉と関連がある事柄を中心に、調べてみることにしました。
※私なりの解釈も盛り込んでいますので、その点ご承知おきください
目次
日本武尊(ヤマトタケル)
景行天皇12年~景行天皇41年。
ヤマトタケル程の過去になると正式な西暦とかは分かりません。だいたい、古墳時代の4世紀中頃(350年頃)と推定されています。
ちなみに、特に神話の世界の神様や皇族はいろんな呼び方、書き方がありますが、それは、古事記や日本書記での記載が違うからで、「私」の事を、俺、自分、わい、など複数の読み方があるのと同じイメージで良いと思います。
ヤマトタケルの場合、
・古事記だと「倭建命(やまとたけるのみこと)」
・日本書記だと「日本武尊(やまとたけるのみこと)」
と、漢字が異なります。
ヤマトタケルの系図
父は12.景行天皇、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
ヤマトタケルには双子の兄(大碓皇子)が居ましたが、父景行天皇にとある事で兄を注意しときなさいと言われると、ヤマトタケル(小碓尊)は兄を惨殺してしまいます。(古事記)
そのために、父はヤマトタケルを遠ざけるようになり、西征(九州への熊襲討伐)するように命令。それが終わったら、次は東征(東北の蝦夷討伐)へと立て続けに命令し、身近に置くことを避けました。
11.垂仁天皇============日葉酢媛命
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| 12.景行天皇 倭姫命
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両道入姫命=======日本武尊=======山代之玖々麻毛理比売 ===弟橘媛命
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神功皇后===14.仲哀天皇 足鏡別王(鎌倉之別の祖)
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15.応神天皇
とはいえ、父の命令にしっかりと応え、東も西も平定したヤマトタケル。
こんなに武勇のある人なのに天皇になっていないのは、後ほど詳しく記載する東征で若くして亡くなってしまったからです。父「景行天皇」は嘆き悲しんだと言います。
よって、ヤマトタケルの異母弟の成務天皇が第13第天皇になりました。
【叔母】倭姫命(ヤマトヒメノミコト:斎王)
ヤマトタケルの叔母で、天照大御神を伊勢神宮に祀った伝説上の人物です。
12.景行天皇の異母妹?で、11.垂仁天皇の娘。
奈良県宇陀郡御杖村にある「御杖神社」のように、天照大御神をどこへ祀るのがよいか候補地探しの旅で立ち寄った場所が神社になったりして、元伊勢とも呼ばれたりしています。。
という訳で、伊勢神宮(内宮)の創建は「垂仁天皇26年」となっています。
ヤマトタケルが、奈良の桜井・天理周辺?から東征に行くときに、途中の伊勢に立ち寄って倭姫命に会い、そこで三種の神器の一つ「草薙の剣」を授かりました。
草なぎの剣は、その昔、スサノオがヤマタノオロチを倒した時にその体から取り出した剣で、天照大神からニニギノミコトへ渡され、天から地へ降りてきた(天孫降臨)に一緒に持ってきたとされる剣です。
【子】足鏡別王(あし かがみ わけの みこ)
「古事記」が完成した712年に、「鎌倉」という名前が、足鏡別王と共に初めて見られます。
この、足鏡別王はヤマトタケルの子供です。ヤマトタケルと鎌倉には関係があるんですね!
奈良時代における鎌倉の出来事についてはコチラのページから
【妃】弟橘媛命(おと たちばな ひめの みこと)
日本武尊(ヤマトタケル)には複数の妃がいますが、鎌倉近隣ネタで重要な妃がこの弟橘媛命です。(詳細は下記に記載)
ヤマトタケルの東征で東京湾を横断するときに荒れた海を鎮める為に水中に身を投げた妃。千葉県の袖ヶ浦市は弟橘媛の着物の袖が流れ着いたことが由来という伝説があります。
また、東征の進路の途中にある「橘樹神社(茂原市)」の裏に、日本武尊がつくったという墳丘があります。
もともとは、奈良県の十市郡(天理市周辺)を本拠地にした古代豪族「穂積氏」が出自です。穂積氏の祖である「可美真手命(うましまでのみこと)像」が浜離宮恩賜公園に建っています。
ヤマトタケルの東征
ヤマトタケルは父の景行天皇から、東国にいる賊たちを討伐し服従させるように命令されます。
どういうルートなのか詳細はわかりませんが、奈良→伊勢→尾張→焼津→足柄→鎌倉→三浦→房総→日立→陸奥と、こんな感じで、その土地土地の人たちを従えていったのではないかと思います。
しかし、残念ながら東征が終わって大和(奈良)へ帰る途中に、とうとう力尽きて亡くなってしまいました。
【三種の神器】草薙剣(熱田神宮と焼津)
草薙剣は、熱田神宮(名古屋市熱田区)に祀られています。
主神「熱田大神(あつたのおおかみ)」となっていて、説明では”三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代としてよらせられる天照大神のこと”と書かれています。
御霊代(みたましろ):神霊の代わりに祀るもの。御神体。
東征に行く途中に尾張国で出会った宮簀媛命(みやすひめのみこと)と恋に落ち、婚約した日本武尊。無事、東征が終わって尾張国まで戻って来た日本武尊は、彼女と結婚します。
ここで、またもや天皇から「伊吹山の敵を平定しろ」と命令を受けたので、素手でやっつけてやると草薙の剣を宮簀媛命に預けて出発、しかし油断した日本武尊はココで敗北。大和へ帰る途中(亀山市付近)に亡くなってしまいました。
残された宮簀媛命は形見の草薙剣を熱田の地にお祀りします。これが熱田神宮の始まり。景行天皇43年(113年)のことだそうです。
走水神社(横須賀市)
東京湾を望む、横須賀市にある「走水神社(はしりみずじんじゃ)」は、日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)を御祭神としてお祀りする神社です。
【歴史書】東鑑・吾妻鏡
ヤマトタケルが東征の途中、三浦半島から房総半島へ船で海へ渡ろうとしたときに、途中から海が大荒れに。これは今までヤマトタケルが征伐という名でいろんな人を殺め海神が怒っているのだとし、自分(弟橘媛命:ヤマトタケルの妃)が海神の生贄になり怒りを鎮めますと、水中に飛び込んで亡くなりました。
東征の帰り、碓氷峠(長野県)から東側を眺めながら、弟橘媛命の事を思い「吾が妻よ・・・」を嘆きながら言った言葉から、東国を吾妻(あずま:東)と呼ぶようになったようです。
吾妻鏡とヤマトタケルがこんなところで繋がるとは!
ヤマトタケルの和歌
古事記
「倭は国のまほろば 畳なづく 青垣 山籠れる 倭し麗し」
(やまとは くにのまほろば たたなづく あおかき やまごもれる やまとしうるわし)
伊吹山で戦い敗れたヤマトタケルが、死の直前に都(大和)を思って詠んだ歌。
ちなみに、日本最古の歌集と言われる「万葉集」で、一番古い歌は磐之姫皇后(16.仁徳天皇の妻)と言われていますし、一番最初の載っている歌は21.雄略天皇の歌なので、子どもが14代天皇という日本武尊は万葉集には載っていないことになります。
その次は、平安時代になり「古今和歌集(全二十巻)」です。
ヤマトタケルのお墓
ヤマトタケルの墓がどこにあるのか、昔過ぎて分かりませんが、これだろうと(治定)推測される場所が何ヶ所かあります。
ヤマトタケルは無くなったら白鳥に姿を変えたという言い伝えがあって、そこから白鳥三陵という名数陵ができました。
三重県亀山市(実際に亡くなった場所)、奈良県御所市(琴弾原白鳥陵:白鳥が降り立った場所)、大阪府羽曳野市(最後に降り立った場所)です。
白鳥陵古墳(羽曳野市)
羽曳野市にある白鳥陵古墳はその一つ。応神天皇陵の近くに位置しています。
墳丘の長さは200m、前方部高さ23m、墳丘3段、大型の前方後円墳です。
参考:仁徳天皇陵(日本最大) 長さ486m、後円部高さ35.8m、墳丘3段
ヤマトタケルは無くなると白鳥に姿を変えたと伝わっていて、最後に降りたところに陵(墓)が作られて、その後天に「羽を曳くように空を飛んで行った」のが、羽曳野市の名称由来らしいです。
日本武尊が祀られている鎌倉市内の神社
・熊野神社(大船)
・熊野新宮(極楽寺)
・小動神社(腰越)