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高浜虚子(たかはま きょし)
1874-1959 俳人、小説家。本名は高浜 清
愛知県松山市に生まれ、正岡子規に俳句を教わる。俳誌「ホトトギス」を引き継いだ。
この「教養としての俳句」は、高濱虚子周辺の人物をメインに、俳句の歴史から、俳句とは?を丁寧に説明してくれています。俳句をちょっと知ってみたいという人にはピッタリの本。
この本で、高浜虚子の事を「近代俳句の王者」と書いています。
写生とは?
正岡子規は「写生」という考え方を提唱し、それは高浜虚子にも引き継がれました。
芸術や文学というと、人生とは?生き方とは?等、何か特別な才能を持った人たちの難しい理論的なことを思ってしまいますが、俳句の「写生」は、
個人的な体験やささやかな実感を季語とともに詠めば詩になる
ということだそうです。

高浜虚子の交友関係 他
正岡子規(師匠)
1867-1902 俳人。高浜虚子より7歳ほど年上。

夏目漱石(友人)
1867-1916 小説家。
大学時代に正岡子規(同年齢)と出会い俳句を学ぶ。
海外留学から帰国し、東京帝国大学に勤め始め、ノイローゼに陥り、高浜虚子が気晴らしにと「ホトトギス」への文章執筆を勧め、明治38年に漱石(本名は夏目金之助)というペンネームで「吾輩は猫である」を発表しました。

夏目漱石は、明治27年末に円覚寺塔頭「帰源院」へ参禅に行っています。吾輩は猫である発表の10年ほど前の出来事ですね。
大佛次郎(友人?仕事仲間?)
1897(明治30)-1973(昭和48)
鎌倉文士の大佛次郎を中心として復刊発行された日本の大衆文芸雑誌「苦楽(くらく)」に、高浜虚子が数十年ぶりの小説「虹」を発表。
もともと、高浜虚子は俳句より小説家になりたかったのだそう。
高浜虚子周辺の系図
当時としては珍しくないのかもしれませんが、2男6女と子だくさん。
子から孫にいたるまで、俳人や小説家などで活躍しています。
高浜虚子=====高浜いと
┣------┳---
高浜年尾 星野立子
[長男] [次女]
この中でも、2女の星野立子は有名
※1925年に作家で『文学界』主宰星野天知の息子、鎌倉彫職人の星野吉人と結婚し、星野姓に。
女性俳人では同時期に活躍した中村汀女・橋本多佳子・三橋鷹女とともに「四T」と称された。
高浜虚子ゆかりの地
高浜虚子庵跡
高浜虚子が住んでいた住居「虚子庵」、昔は原の台という地名だったのでしょうか?
ここで句会をしばしば開いたと。


旧御用邸門
明治32年に明治天皇の皇女のために作られた鎌倉御用邸の門。現在は御成小学校の正門として受け継がれています。門標の校名の文字は、高浜虚子が筆をとりました。


寿福寺
寿福寺奥の墓地には、高浜虚子のお墓があります。


長谷寺
観音ミュージアムの手前に建っている観音像。高浜虚子とご近所に住んでいて親しかった大麻唯男の娘栄子の供養の為に建てたようです。その台石に彫る句をお願いされたようですね。
星野天知、星野立子顕彰碑
鎌倉市笹目町にある顕彰碑。
笹目町に星野立子夫婦とその父星野天知が住んだ場所ということで、顕彰碑が立っています。


鎌倉虚子立子記念館
鎌倉二階堂にある高浜虚子、星野立子にちなんだ、鎌倉虚子立子記念館です。
子規堂(松山市)
高浜虚子の師匠「正岡子規」、その正岡家の菩提寺である正宗寺(しょうじゅうじ)境内に建ち、子規が17歳まで暮らした家を復元した記念堂。
高浜虚子筆塚が見られます。