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海野幸氏(うんの ゆきうじ)
1172-?
信濃国の名族「滋野氏」の嫡流「海野氏」当主。弓の名手。
父の海野幸親が木曽義仲の家臣として行動し、子の海野幸氏は同い年の「木曽義高(源義高)」の座右に仕えた。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、加部亜門さんが演じられます。
海野幸氏の簡易年表
若い頃は木曽義高に仕え、ギリギリの人生でしたが、頼朝に弓の腕などを認められてからは所領も増やし、海野氏を大きくした人物です。
ホントかどうか分かりませんが、戦国時代の「真田幸村」は海野氏(庶流)の流れを汲むとか。
たしかに「幸」の字は、海野幸氏と同じですね。
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
承安2(1172)年 | 0 | 誕生(父:海野幸親?) |
元暦元(1184)年 | 13 | 木曽義高の身代わりとなって、義高の鎌倉脱出に手を貸す |
文治4(1188)年 | 17 | 鶴岡八幡宮の流鏑馬で射手を務める |
建久4(1193)年 | 23 | 富士の巻狩り(曽我兄弟の仇討ち) 頼朝の護衛役を務めるも負傷 |
建暦3(1213)年 | 43 | 和田合戦 |
承久3(1221)年 | 51 | 承久の乱 |
仁治2(1241)年 | 71 | 武田信光と境界についての相論があり、勝訴 |
不詳 | 死没 |
木曽義高の鎌倉脱出を手伝う
海野小太郎幸氏は、鎌倉へ人質として送られた木曽義高に近侍。バレれば自分の身も危なくなるにも拘わらず主君の鎌倉脱出に力を貸しました。
これが、海野幸氏の吾妻鏡初登場記事になります。
元暦元(1184)年4月21日
源頼朝は志水冠者「源義高」を誅殺すべきと内々に決められたが、女房の知ることとなり、大姫経由で義高へ。義高は計略を巡らし、早朝に女房の姿になりすまし鎌倉を脱出した。
一方、志水(義高)と同年の海野小太郎幸氏は、日夜義高の座右に仕え、片時も側を離れることが無かった。そこで義高と入れ替わって普段通りに過ごしていたが夜になって露見、頼朝は非常に怒り即座に幸氏を拘束した
弓の名手として活躍
木曽義高事件から4年経過した文治4年以降に海野幸氏が再登場しますが、その内容は流鏑馬の射手としての内容が続きます。弓の名手として源頼朝が気に入ったのでしょうか。
文治4(1188)年2月28日
鶴岡八幡宮で臨時祭。流鏑馬が行われ、海野幸氏、諏訪盛隆の二騎が射た。
文治5(1189)年正月9日
源頼家の御方で弓始めがあった。射手は10人。小御所の南面で儀式が行われた。
一番 下河辺行平 曽我祐信
二番 小山朝光 和田宗実
三番 藤沢清近 橘次公成
四番 三浦義連 海野幸氏
五番 榛谷重朝 和田義盛
また、人生後半では弓矢の教師のような立場にもなっています。
源頼朝に仕え、その時代にすぐれた8人の射手とも言われていたと書かれています。
嘉禎3(1237)年7月19日
北条時頼が来月初めて鶴岡八幡宮で流鏑馬をするとのことで馬場で練習した。海野左衛門尉幸氏が招かれ、北条泰時が、時頼の射芸の作法にかなわない点を見て注意してくれと。
幸氏は「生まれながらの上手」と感心したが、泰時はしつこく時頼の欠点を問われたので、昔、頼朝の御前で弓矢の談議が行われたときのことを話し、泰時は非常に喜んだ。
武田信光との境界相論
海野幸氏が左衛門尉として最初に出てくる吾妻鏡の内容は武田信光との相論。長い間揉めて、敗訴した武田信光は恨みのあまり執権に謀反を起こそうとまで。
信濃の一豪族が、甲斐源氏の嫡流と所領争いするぐらいですから、海野氏の勢力拡大さが分かりますね。
建保4(1216)年10月5日
源実朝が直訴を聞かれた。
海野左衛門尉幸氏が上野国三原(現 群馬県嬬恋村)の境界以下のことを申した。
仁治2(1241)年3月25日
海野左衛門尉幸氏と武田伊豆入道光蓮(信光)が相論している、上野国三原、信濃国長倉保(現 長野県軽井沢町)の境については幸氏の訴えに道理があるので、横領分を引き渡すように命じていた。
この件で信光が遺恨に思い、前武州(北条泰時)に対して宿意を遂げようとしている噂が有ったので審議したがその通りだった。
海野幸氏周辺の系図
海野氏の系図は詳しく分かっていません。
幸氏の父親すら、幸親(Wiki)、幸広(吾妻鏡)なのか複数説があります。
海野幸親(木曽義仲の侍大将)
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海野幸氏
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海野長氏
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
海野幸氏ゆかりの地
鶴岡八幡宮 流鏑馬馬場
弓の名手だった海野幸氏が、鶴岡八幡宮の放生会、流鏑馬神事などで活躍したとされる場所。
鶴岡八幡宮の境内を左右に貫いています。
長野県東御市(ながのけんとうみし)
長野県東御市には、滋野駅、海野宿など、滋野氏、海野氏が由来と思われる地名が残っています。
そして、東御市のすぐ西は上田市で真田幸村ゆかりの地。
どうやらこの辺が海野氏の故郷と思ってよさそうですが、史跡が残っていません。