鎌倉幕府を倒し、南朝を開いた後醍醐天皇。
その皇女の一人が用堂尼(ようどうに)です。
用堂尼は北鎌倉の東慶寺に入り、第5世住持となりました。東慶寺の寺伝では、鎌倉で非業の最期を迎えた護良親王の菩提を弔うために入寺したと伝えられています。
後醍醐天皇、護良親王、そして用堂尼。南北朝動乱期を生きた皇族の物語は、鎌倉にも残されています。
今回は用堂尼の生涯と、ゆかりの地・東慶寺を訪ねます。
目次
皇女 用堂尼とは?
用堂尼(ようどうに)
生年不詳~1396年。後醍醐天皇の皇女で、北鎌倉・東慶寺の第5世住持。
東慶寺の『過去帳』には後醍醐天皇の姫宮であることと、1396年(応永3年)8月8日に入寂したことが記されています。
用堂尼周辺の系図

👥 系図に登場する人物
- 👤 後醍醐天皇を詳しく見る
- 👤 護良親王を詳しく見る
- 👤 用堂尼を詳しく見る
- 👤 日野俊基を詳しく見る
護良親王の菩提を弔うため東慶寺へ
用堂尼と鎌倉を結びつける人物が、後醍醐天皇の皇子・護良親王です。
鎌倉幕府倒幕を戦った護良親王は、幕府滅亡後に足利尊氏らとの対立から失脚。鎌倉へ送られ、1335年(建武2年)、中先代の乱の混乱のなかで殺害されました。
東慶寺の寺伝では、用堂尼は護良親王の菩提を弔うため東慶寺へ入ったと伝えられています。
父・後醍醐天皇が倒した鎌倉幕府。その鎌倉で最期を迎えた護良親王。そして、その菩提を弔うため北鎌倉の尼寺へ入ったとされる用堂尼。
後醍醐天皇の子どもたちの足跡は、鎌倉で再びつながることになります。
東慶寺第5世となった用堂尼
用堂尼が入った東慶寺は、1285年(弘安8年)、北条時宗の妻・覚山尼を開山として創建された尼寺です。
つまり用堂尼が入寺したのは、もともと北条氏と深い関係を持つ寺でした。
東慶寺の年表では、1333年に後醍醐天皇の皇女が入寺し、第5世用堂尼となったとされています。
「松岡御所」と呼ばれた東慶寺
皇女である用堂尼が住持となったことで、東慶寺の寺格はさらに高まりました。
東慶寺では、用堂尼の住持以降、寺を「御所寺」「松岡御所」と称するようになったと伝えています。
現在の書院にも、格天井に十六菊花紋が描かれるなど、用堂尼以来の「御所寺」の面影が残されています。用堂尼は1396年(応永3年)に入寂しましたが、その存在は東慶寺の歴史と格式に大きな足跡を残しました。
用堂尼ゆかりの地|鎌倉
用堂尼の足跡を現在の鎌倉でたどるなら、北鎌倉の東慶寺へ。
「縁切寺」「駆込み寺」として知られる東慶寺ですが、後醍醐天皇の皇女・用堂尼が住持となった「御所寺」という、もう一つの歴史があります。
松岡山 東慶寺
臨済宗円覚寺派。「縁切り寺」「駆け込み寺」で有名。
東慶寺5世住職がこの用堂尼。護良親王の菩提を弔うために入寺。


天皇の皇女が住職になったため寺格が上がり「松岡御所」と呼ばれるように。
「松岡御所」の松岡は、東慶寺の山号「松岡山」から来ています。
山号の由来そのもの(なぜ「松岡」という名を選んだか)についてはっきり書いた史料は見当たりませんが、単純に寺の背後の丘陵(岡)に松が多かった、という地形由来の可能性が高そうです。
KAGOLABO選書・・・用堂尼と南北朝をもっと知る
この記事に関連する書籍の中から、KAGOLABOがおすすめする3冊をご紹介します。
🥇 まずは映像で南北朝の世界へ
後醍醐天皇、足利尊氏、護良親王など、複雑な人物関係と時代の流れを映像でつかみたい人におすすめ。南北朝時代への入口として楽しめる作品です。
🥈用堂尼が暮らした尼寺の歴史を知る
「縁切寺」「駆込寺」として知られる北鎌倉の東慶寺。女性たちはなぜこの寺を頼り、東慶寺はどのような役割を果たしてきたのでしょうか。
用堂尼が第5世を務めた東慶寺の歴史を、もう一歩深く知りたい人におすすめの一冊です。
🥉 後醍醐天皇ゆかりの吉野を歩く
吉野神宮、吉水神社、如意輪寺など、後醍醐天皇の足跡を実際に訪ねてみたい人へ。
歴史を知ったあとに「現地へ行く」ための一冊です。

