今回は、今は廃寺となっている「理智光寺址」の石碑を読んでみました。
廃寺となった鎌倉のお寺は多くて、今あるお寺だけでも100を超えるのに、把握するのが大変です(汗)
目次
理智光寺址

「理智光寺址」石碑の場所
ここは宮内庁管理の護良親王の墓の入口の正面に石碑が立っています。
周りは谷戸に囲まれた住宅街です。
石碑に書かれている文字は?
此所ハ願行上人ヲ開山トセシ五峰山理智光寺ノ址ナリ
建武二年淵邉伊賀守義博ハ足利直義ノ命ヲ承ケ護良親王を弑シ奉リシガ其御死相ニ怖レ御首ヲ傍ナル藪中ニ捨テ去リシヲ當寺ノ住層拾ヒ取リ山上ニ埋葬シ奉リシトイフ
昭和七年三月建 鎌倉町青年團
この場所は願行上人が開山となった五峰山理智光寺の跡である。
1335年(建武2年)淵邉義博は、足利直義の命令で護良親王を殺害したが、その死顔の形相に恐れて、その首を近くの藪に捨て去った。
当時の住職がその首を拾い山上に埋葬したという。
昭和7年3月建立 鎌倉町青年団
※間違っていたらごめんなさい
事前知識(漢字・用語編)
弑:しい:身分の下の人が、身分の上の人を殺す。
事前知識(歴史編)
願行上人
1215~1295年。憲静(けんじょう)とも。北条貞時の病気を回復させた。
安養院の開山に「願行上人」とありますが、同じ人じゃないっぽい?


建武二年
1335年。けんむ。1334-1336年。
1333年に鎌倉時代は終わっていますから、南北朝時代初期ですね。
淵邉(伊賀守)義博
生年不明~1335年。ふちのべよしひろ。足利直義(足利尊氏の弟)の家臣。
足利直義
1306-1352年。あしかがただよし。足利貞氏の三男で、足利尊氏の弟。
有名な伝源頼朝像が、近年、この足利直義という説が出ているそうです。
護良親王(もりよししんのう)
1308-1335年。後醍醐天皇の皇子。鎌倉幕府倒幕の中心人物。
比叡山の僧兵を味方につける為に護良親王を比叡山に送り込み(と思ってる)天台座主にまでなった人物。
1331年 般若寺に潜伏
コスモス寺で有名な真言律宗の般若寺。忍性が鎌倉に来る前に事前活動をやってた場所。
— kagolabo.jp 🐿 鎌倉 (@KagolaboJp) June 22, 2020
護良親王が鎌倉北条軍の追手から隠れたのもこのお寺。
奈良で二階堂谷東光寺土牢の文字を見るとはね!#奈良 #般若寺 #忍性 #護良親王 pic.twitter.com/RH8khVFVDU
1333年 征夷大将軍に
後醍醐天皇のお気に入り「阿野廉子」にも疎まれ(廉子の子じゃないため)、その後足利尊氏とも対立し、鎌倉二階堂の東光寺(現鎌倉宮とも)に幽閉され、その後、弟の直義に殺害された。
ちなみに「阿野廉子」は、源頼朝の異母弟「阿野全成」の血を引いています。
鎌倉宮
祭神が大塔宮護良親王。
明治2年、明治天皇の勅命により創建。


護良親王の墓(YouTube)
2019年の台風被害の影響で山上まで登れなくなりました・・・。