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源範頼(みなもと の のりより)
1150?-1193。源義朝の六男で、頼朝の異母弟。義経の異母兄です。
遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ち、蒲冠者(かばのかじゃ)とも呼ばれる。
三河守になってからは、三河の異称である、三州。
晩年は、武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の周辺を領して吉見御所と尊称された。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、迫田孝也さんが演じられます。
源範頼の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
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久安6(1150)年 | 0 | 誕生(父:源義朝、母:池田宿の遊女) |
遠江国蒲御厨で育つ | ||
治承4(1180)年 | 甲斐源氏らと協力して挙兵 | |
寿永2(1183)年 | 野木宮合戦へ援軍(吾妻鏡の初登場) | |
寿永3(1184)年 | 木曽義仲追討の大将軍、一ノ谷合戦では大手軍を率いる | |
三河守に任じられる | ||
文治元(1185)年 | 平家追討で九州に進軍し、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させる | |
文治5(1189)年 | 奥州合戦では頼朝に従い参加 | |
建久元(1190)年 | 頼朝上洛に伴い、頼朝大納言拝賀で前駆を務める | |
建久4(1193)年 | 曽我兄弟の仇討ち 謀反の疑いで伊豆国修善寺に幽閉され、誅殺されたとされる。 |
源範頼周辺の系図
源範頼は河内源氏の流れを汲む、父義朝の6男です。
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源義朝
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源義平 朝長 頼朝 義門 希義 範頼===安達盛長娘 全成 義円 義経
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幼いころに、義朝は平治の乱で殺されたため、藤原範季が養父になって遠江国蒲御厨で密かに養われたようです。範頼の「範」の字は、養父である藤原範季の「範」を取っています。
また、安達藤九郎盛長の婿にもあたります。
修善寺に、源範頼と安達盛長の墓が共にあるのは、この家族関係が関係しています。
源範頼ゆかりの地
息障院(伝範頼館跡)
▶ 埼玉県比企郡吉見町御所146|🅿あり|
現在の境内地が源範頼の館跡と言われています。開基は行基菩薩とも坂上田村麻呂とも伝わる。
境内の灯篭や賽銭箱にはササリンドウ。
安楽寺(埼玉県吉見町)
埼玉県吉見町にある安楽寺。坂東観音霊場の11番目の札所。
平治の乱後に、範頼がこの地を領するようになり、大講堂と三重大塔を建立したと伝わります。
大寧寺(横浜市金沢区)
伊豆の修善寺に幽閉され、梶原景時の追手により殺害されたとされてますが、大寧寺の寺伝には、横須賀市浦郷・鉈切(なたぎり)まで逃れて、その場所にあった大寧寺で自害したとあります。
太寧寺は昭和18年に追浜飛行場拡張工事のためココに移転。
源範頼が、追手に追われた浜を「追浜」。その追手を漁師「平兵衛」が鉈(なた)で切って範頼を助けたのが「鉈切」。範頼主従を匿った御礼に「蒲」と匿われた「谷」を合わせて「蒲谷」姓を授け、金沢区、追浜周辺には蒲谷姓が多いようです。(ツイッターのコメントより)
薬王寺(横浜市金沢区)
称名寺の向かいにある真言宗御室派の寺院。
源範頼公の別邸の地、瀬が崎(現、六浦東)に公の霊を弔うために建立された真言宗の寺。境内には八百回忌供養塔も。
本尊の薬師如来は、源範頼公の念持仏といわれています。
六浦東には、瀬ヶ崎小学校、瀬ヶ崎神社などの地名が残っています。
源範頼の墓
建久4(1193)年曽我兄弟の仇討ちの際に、北条政子に言った言葉「私がついております」が幕府横領の疑いを招き、誠心誠意の謝罪も受け入れられず修善寺へ幽閉し、最後は梶原景時に攻められ自害。
頼朝と義経の仲が悪くなった時、頼朝からの義経討伐を断ったため、頼朝から疑われるようになったという。