下河辺行平|弓取の名手で頼朝の家子にも選ばれた、藤原秀郷流小山氏庶流

下河辺行平|弓取の名手で頼朝の家子にも選ばれた、藤原秀郷流小山氏庶流

2022-01-25

下河辺庄司行平(しもこうべゆきひら)

生没年不詳。
藤原秀郷の子孫、下野国小山氏の一門(庶流)。

父「下河辺行義」の時に、下河辺荘が成立して、小山氏からは独立した勢力になる。

また、藤原秀郷の子孫にふさわしく、弓の名手であり、頼朝より「日本無双の弓取」と称賛され、頼朝の嫡男の頼家に弓を教える師範にもなっている。

下河辺行平の簡易年表

下河辺行平は残念ながら生没年不詳となっています。
ただし、北条義時結城朝光と共に、頼朝の家子に選ばれていることから、1160年代誕生ではないかと思います。

年代年齢出来事
0生誕不明
治承4年(1180年)以仁王の挙兵を源頼朝に知らせる
※当時、父行義と共に京にいた
常陸国、佐竹攻めに参加
養和元年(1181年)頼朝の寝所を警護する11名の内家子に選ばれる
寿永2年(1183年)野木宮合戦に小山朝政側で参加
寿永3年(1184年)一ノ谷の戦いに参加(源範頼軍)
寿永4年(1185年)壇ノ浦の戦いに参加(源範頼軍)
文治3年(1187年)畠山重忠謀反の疑いありの時、「弓馬の友」行平が重忠の元に派遣
文治5年(1189年)奥州合戦(頼朝の御共の列に加わる)
建久6年(1195年)准門葉として源氏一門と同等に待遇される
元久2年(1205年)畠山重忠の乱で、討伐軍(北条方)として参加
没年不明

吾妻鏡より・・・

頼朝に頼政の挙兵の準備を知らせる

実は下河辺行平、吾妻鏡の中で多くの鎌倉御家人の中から群を抜いて早く、登場しています。
この時、源頼政に従って在京していたみたいです。使者は京都からでしょうか?

頼政神社が古河周辺にあるのも分かります。

治承4(1180)年5月10日

下河辺庄司行平が源頼朝(武衛)に使者を送り、源頼政が挙兵の準備をしていることを報告した。

頼朝から准門葉として御書を貰う

清和源氏の血筋で選ばれた家(8名ほど)を「御門葉」と呼び、清和源氏以外の血統とは別に「准門葉」という地位があった。

准門葉は4人しかいない名誉な地位。他に、大江広元結城朝光、毛呂季光。

建久6(1195)年11月 6日

下河辺行平に対して、源頼朝は特に心をかけられるあまり、「子孫に至るまで、源氏の門葉に准ずる」と、本日御書を下された。

下河辺行平周辺の系図

 |
太田行光
 ├--------------┐
下河辺行義        小山政光→嫡流=============== 寒川尼
 ├-------┐      ├‐---------┐   └------┐
下河辺行平  益戸政義  小山朝政(1155頃)   長沼宗政(1162)   結城朝光(1168)
                |                    |
               朝政                   朝広 

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

父の行義と小山政光は兄弟で、同じ「大田四郎行光」を父に持ちます。
行義の代で「下河辺庄司」を名乗り、小山政光は「下野大掾」を名乗っています。

ちなみに、小山政光の後室が「寒川尼(さむかわのあま)」、頼朝の乳母、結城朝光を産んでいます。

下河辺荘

現在「下河辺」という地名は残っていませんが、範囲としては「茨城県古河市・五霞町・埼玉県加須市」にまたがり、八条院領の寄進系荘園でした。

八条院からは以仁王源頼政が関連できますね。

下河辺行平ゆかりの地

下河辺氏については、十分な記録が残っていないようで、ゆかりの地についての記録も多く有りません。
とっても残念ですね・・。

古河城

室町時代に「足利成氏」が鎌倉から古河に移り「古河公方」となった時に居城とした城ですが、元々は下河辺行平が築いた居館とされています。

茨城県古河市も下河辺荘の一部でしたから、なんらおかしな話ではありませんね。

YouTubeで古河市

古河市を拠点とした古河公方についての動画ですが、下河辺行平が拠点とした古河城や古河市界隈の雰囲気が分かる内容になっています。

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