蒙古襲来(文永・弘安の役)|博多沿岸に残る元寇防塁の場所・アクセスまとめ

蒙古襲来(文永・弘安の役)|博多沿岸に残る元寇防塁の場所・アクセスまとめ

今回は鎌倉時代の中でも一大事件だった「蒙古襲来(文永・弘安の役)

これを理解するために、現地の史跡を巡ってきました。九州(特に福岡博多周辺)の数ある史跡の中から、この出来事に絞った場所だけをピックアップ。やっぱり実際に行くと理解が進みますね!

散らばっていてよく分からない元寇防塁も地図にしてアクセスや駐車場情報も記載してみたので、効率よく巡りたい人は参考にしてみてください。

蒙古襲来とは?

1274年(文永11)と1281年(弘安4)の2度に渡って、モンゴル軍(元軍)・高麗軍が九州を攻撃してきた鎌倉時代の中でも有数の大事件。鎌倉幕府は九州の御家人を中心に彼らを撃退させました。

この戦いで有名な御家人として、蒙古襲来絵詞の主人公「竹崎季長」がいますね。

文永の役(1274年10月~)

モンゴル軍は南宋攻略の一環として、宋と交流があった日本を標的にして攻めてきました。

まず、モンゴル軍は、10月5日に対馬・10月14日に壱岐を攻略。
10月20日に博多湾西部に上陸。日本側は九州の御家人、少弐資能(筑前・肥前守護)、大友頼泰(豊後守護)が中心となって迎え撃ちました。

火薬兵器「てつはう」などに苦戦した鎌倉幕府軍(日本軍)は、戦闘1日で大宰府への撤退を強いられます。
しかし、その後モンゴル軍は一夜にして撤退(*)してしまいました。

ちなみに10月20日は現在の暦で11月末。台風が九州に上陸することは無く「神風説」は否定されているらしい・・・

弘安の役(1281年5月~)

モンゴル軍二度目の日本襲来。

鎌倉幕府は、第一回蒙古襲来(文永の役)の翌年に、執権の北条時宗が来日した元の使節「杜世忠(とせいちゅう)」らを龍ノ口で斬首。また、モンゴル軍の再来襲を予測して、博多湾岸に「石築地」という防塁(いまで言う元寇防塁)を構築しました。

その間、モンゴル軍は南宋を攻略し、弘安の役では日本攻略が目的となっていました。

1281年5月3日、対馬・壱岐での戦いを経て、6月6日に博多での攻防戦が始まります。しかし、石築地が威力を発揮して、モンゴル軍は博多に上陸できませんでした。

7月にはモンゴルの別部隊が長崎平戸に到着し、松浦湾で体制を整えて、博多へ再度総攻撃しようとしたところ、暴風雨に襲われ、さらには日本軍の襲撃。モンゴル軍は兵を大きく失い撤退していきました。

鎌倉幕府の九州統治

鎮西奉行

鎌倉幕府が九州全域の御家人を統制すべく設置した期間
1185年(文治元)末に、源頼朝の側近「天野遠景」が鎮西奉行に任じられて九州へ下向しました。

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鎮西探題

文永・弘安の役が終わって10年以上たった1292年(正応5)モンゴルと高麗からの信書が到来します。

モンゴルの三度目の襲来を予測した鎌倉幕府が、北条兼時と名越時家を九州へ派遣して二人を長官とする鎮西探題が成立したとされています。

推定地は櫛田神社境内の東側。
祇園町遺跡ではミツウロコ(北条氏家紋)が入った土師器の皿が出土。

モンゴル軍の来襲に備えて「石築地」を構築しているときは、姪浜の「探題塚」や「愛宕山」にも探題館があったと推定されています。

九州探題

ちなみに、室町時代になると九州統治のために「九州探題」が設置され、足利将軍家ご一家の「渋川氏」が九州探題職を世襲しました。

名称が、鎮西奉行→鎮西探題→九州探題と変わっていきますが、九州地方統治という本質は変わりませんね。

蒙古襲来ゆかりの地マップ(元寇防塁編)

鎌倉幕府が九州各地の御家人に命じて、再度の元の来襲に備え、約半年間で築かせた「石築地(元寇防塁)」西は今津、東は香椎まで、博多湾の沿岸沿い約20kmに渡ります。

というわけで、史跡は20kmに渡って何ヶ所かに点在しています。
それぞれの史跡は歩くには遠すぎる距離で、大きさもバラバラなので、事前リサーチがとっても重要です。

一か所だけで良いのであれば、メインの「生の松原地区」になるでしょう。

史跡 元寇防塁

★生の松原地区(いきのまつばら)

アクセス:JR筑肥線「下山門」駅 徒歩15分ほど
駐車場 :近くにコインパーキングあり

数ある史跡 元寇防塁の中でも一番大きくて有名なのがココ「生の松原地区」
『蒙古襲来絵詞』に描かれている、竹崎季長(肥後御家人)が防塁の前を馬上で進む場面がこの場所になります。

他の元寇防塁が、埋め立てによって内陸に残っているに対して、ココは目の前が海岸になっていて、当時の情景が浮かぶようです。

向浜地区

アクセス:地下鉄空港線「姪浜」駅 徒歩25分ほど
駐車場 :近隣の小松公園の駐車場有

電車ではかなり行きにくい場所にあるのが向浜地区にある元寇防塁です。
地下鉄空港線「姪浜」駅から、路線バス「マリノアシティ福岡」行きで小戸公園下車でもOK! 

大正時代にはあった石塁が今は無残にも何も残っていません。
遺跡自体もなんとなく膨らんでいる地形だなくらいで、苦労してくる場所ではないかもしれません(汗)

脇地区

アクセス:地下鉄空港線「姪浜」駅 徒歩20分ほど
駐車場 :なし

マリノアシティ福岡(アウトレットモール)の近くにある住宅街の中にポツンとある元寇防塁。こちらも土塁のような地形が残っています。
行く価値があるのか分かりませんが、マリノアシティ福岡のついでなら良いかもしれませんね。

姪浜の北側を脇地区と言うらしいけど、旅行者にはそんなニッチな地名を言われても全く分かりません。せめて姪浜地区にして欲しい・・・

百道地区(ももち)

アクセス:地下鉄空港線「藤崎」駅 徒歩5分ほど
駐車場 :なし

元寇防塁の中間地点にあたる百道地区。ももちと読みます。
文永の役の時は、モンゴル軍が百道浜に上陸、この付近一帯が戦場となったようです。(祖原古戦場については下記)

史跡としてはそれほど大きくなく、説明板1枚。
隣の西新地区の元寇史跡と一緒に巡るのが効率的でしょう。

西新地区

アクセス:地下鉄空港線「西新」駅 徒歩10分ほど
駐車場 :なし

西南学院大学の一角に残っている史跡元寇防塁。
近くには新しい「元寇神社」も建っています。

史跡の大きさとしては、生の松原地区以外の元寇防塁と同じレベル。
ココだけ見るのは寂しいので、すぐ側の百道地区、祖原元寇古戦場へも足を延ばしたいところです。

元寇防塁以外の関連史跡

祖原古戦場

アクセス:地下鉄空港線「西新」駅 徒歩15分ほど
駐車場 :なし

1回目の日本侵略、文永の役ではモンゴル軍は博多湾から今津・百道原に上陸して、日本軍(鎌倉幕府軍)と戦いました。その時のモンゴル軍が陣を構えた場所がこの地「祖原」とのこと。

祖原元寇古戦場として、祖原公園の山頂付近に石碑と説明板が設置されています。

探題塚

アクセス:地下鉄空港線「姪浜」駅 徒歩10分ほど
駐車場 :なし

直接、蒙古襲来の関連遺跡ではないのかもしれませんが、最後の九州探題「渋川氏」が戦死した場所が、ココ探題塚です。
九州探題の前が、鎌倉幕府が蒙古襲来に備えて設置した「鎮西探題」。

鎮西探題の場所の説はいくつかありますが、ココ姪浜にある愛宕山が候補の一つで、防塁築造の点検報告などを九州の各守護にさせたとあります。

対元寇の最前線の場所だったようですね。

大宰府政庁跡

アクセス:西鉄天神大牟田線「都府楼前」駅 徒歩15分
駐車場 :あり

文永の役でモンゴル軍に攻め込まれた日本(鎌倉幕府軍)は、大宰府まで退きます。

大宰府には、鎌倉時代初期まで西の都として大いに栄えたところ。また、外国からの侵略等にも備えるため、水城など防御施設も整っていたと考えられます。

大宰府といえば、菅原道真がご祭神の「太宰府天満宮」が有名ですが、政庁跡からは少し離れています。

YouTubeで見る元寇防塁

動画完成まではコチラの鎌倉関連動画(鎌倉殿の13人など)をご覧ください。

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