愛甲季隆|畠山重忠に矢を命中させた御家人屈指の弓矢の達人

愛甲季隆|畠山重忠に矢を命中させた御家人屈指の弓矢の達人

2021-10-25

愛甲(三郎)季隆(あいこう すえたか)

生誕不詳(1150年?)-1213。横山党。
相模国愛甲郡愛甲荘(現、厚木市愛甲)の御家人。

愛甲季隆の簡易年表

義仲追討や奥州合戦などには参加していませんが、御家人中屈指の弓の名人として、下河辺行平と同じくらい、殆どの儀式や弓技比べの行事に顔を出す人物です。

時期年令出来事
久安6(1150)年誕生?
治承4(1180)年頼朝の新造の大倉亭での弓始めの儀で射手を務める
文治元(1185)年勝長寿院落慶供養で、将軍出行の際の調度懸
(弓矢を持って供奉する役)を務める
建久4(1193)年源頼家愛甲季隆の指導によって、一頭の鹿をみごと射止める
曽我兄弟の仇討ちで負傷する
小山朝政亭に弓馬の名人が集まり、故実口伝の論じ合わせに参加
元久2(1205)年畠山重忠の乱
二俣川の戦いで畠山重忠に矢を命中させて首を取った
建暦3(1215)年和田合戦
和田義盛方に与し敗北、兄らと共に一族討ち死に

愛甲季隆は弓矢の名手で、戦場では活躍間違いなしと思うのですが、平家追討、奥州征伐など大きな合戦には全く参加していません。そして京への上洛にも。

これは「相模のもののふたち」の著者である永井路子さんは、最後の持ち駒として、合戦の時などに手薄になる鎌倉(東国)に留め置かれたのではと推測されています。納得です。

吾妻鏡から詳しく

愛甲三郎はとにかく、弓矢関係の行事に良く名を連ねます。

新造の御亭における御弓始め

治承4(1180)年12月20日

頼朝の新居において、三浦義澄が饗応し、その後御弓始めが行われた。

射手 
一番 下河辺行平 愛甲三郎季隆
二番 橘太公忠  橘次公成
三番 和田義盛  工藤行光

金洗沢での牛追物

寿永元(1182)年 4月5日

金洗沢(七里ヶ浜)の辺りで牛追物が行われた。
下河辺庄司和田小太郎小山田三郎愛甲三郎らは、射当てた回数が多かったため、それぞれ、色皮、紺絹等を頂いた。

頼朝の伊豆訪問にお供する

元暦元(1184)年 3月18日

源頼朝が、野出の鹿を見る為に、伊豆国に向けて出発。
下河辺行平、下河辺政義、新田忠常愛甲季隆、戸崎国延らを、射手と決められた。

同年 4月1日

下河辺行平、下河辺政義、新田忠常愛甲季隆、戸崎国延が御前に呼ばれ、鹿皮をそれぞれ一枚ずつ渡した。
先日の、伊豆国で仕留めた鹿だという。

文治4年の的始め

文治4(1188)年 正月6日

上総介(足利)義兼が饗応し、酒宴の最中に的始めがあった。

射手 1番 榛谷重朝 和田義盛
   2番 愛甲季隆 橘次公成

横山党と愛甲氏の系図

横山党は武蔵七党の一つ。
武蔵国多摩郡横山荘(現、東京都八王子市)を中心に、武蔵国、相模国北部に割拠した同族的武士団。

横山義孝
 ┣------┓
横山資孝    義兼
 |      |
 |      [海老名氏]
山口季兼
 ┣-------┳--------┳
愛甲季隆    愛甲義久(兄)    山口?    
 |       ┣----┓        
 季通      広基   義考

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

系図には書けませんでしたが、愛甲季隆和田義盛はどうやら親戚関係があるようです。

これで、和田合戦で愛甲氏が和田方に着いた理由がわかりますね。

横山党ゆかりの地

愛甲三郎季隆の史跡は、小田急「愛甲石田駅」周辺にあります。
一番遠い、宝積寺まで約1.7km、歩いて片道15分くらいでしょうか。近くには路線バスも通っています。

愛甲石田駅の北口バスロータリー脇にある案内板です。
ここでようやく「愛甲三郎」のワードを見ることが出来ます。もっとアピールしても良いのに・・・。

円光寺

▶ 厚木市愛甲東2丁目4-1

臨済宗建長寺派のお寺。愛甲氏の本拠があった場所と伝わる。

愛甲石田駅の南側から歩いて5分程度の場所にあるお寺です。
江戸時代に徳川幕府の寄進か何かを受けたのでしょうか?徳川家の三つ葉葵が目立つ山門が物凄く立派に建っています。

境内にあった小さな梵鐘には「三つ鱗」も見えました。

愛甲三郎館跡(神明神社)

▶ 厚木市愛甲西3-4-8

小田急「愛甲石田」駅からちょっと離れた場所にある「愛甲三郎館跡」。

神明神社の境内にありますが、神明神社も小さくてgoogleMAPにも出てきにくいので「上愛甲自治会館(愛甲西3-4-8)で探すと良いかと思います。

愛甲三郎館跡は高台になっていて、北側の低地には「宝積寺」が建っています。

宝積寺

▶ 厚木市愛甲西3丁目6-24

愛甲石田駅から愛甲橋(下に高速道路が走っている)を渡り、愛甲西交差点を右折。
長い下り坂を進むと左手側に宝積寺が見えてきます。

曹洞宗、山号は「愛甲山」

由来が書かかれた石碑は、本堂の左奥にある墓地の中(歴代住職のお墓が並んでいる場所)に設置されています。元々は、愛甲三郎季隆公が「香華院」として建てた旧跡だと書かれています。

愛甲三郎季隆供養塔

宝積寺境内の中にある墓地に、伝愛甲三郎の供養塔と言われるものが2基あります。
墓地の入口にありますので、すぐに分かるかと思います。

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