今回は、初期の鎌倉幕府の中でも、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした「畠山重忠」について、ゆかりの場所をはじめ、広く浅く纏めてみました。
目次
畠山重忠(はたけやま しげただ|畠山庄司次郎重忠)
畠山氏は父の畠山重能が祖。
桓武平氏良文流、坂東八平氏の一つ「秩父氏」の一族です。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、中川大志さんが演じられます。
畠山一族の系図
畠山一族の祖先は平良文から来ているようです。
そして、途中から「豊島・葛西氏」が庶流として分岐、重綱の時に河越・江戸氏が分岐します。
平良文
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秩父重綱(?)
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秩父重弘(?) → 兄弟から河越氏・江戸氏
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畠山重能(?) 小山田有重(?) 千葉常胤妻
| → 稲毛、榛谷、小山田氏
畠山重忠(1164)
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畠山重保(?)
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
父「畠山重能(はたけやま しげよし)」
父の畠山重能は、平治の乱で源義朝(頼朝の父)が敗死すると平家側に従い、20年近く忠実な家人として仕えていました。
後に頼朝側に下ったようですが、平家べったりだった重能を頼朝は重用しなかったせいか、吾妻鏡には寿永2年以降の全く記載がないようです。
畠山重忠の婚姻関係図
畠山重忠の母は三浦義明の娘であり、父・畠山重能の姉妹は千葉常胤の妻という婚姻関係があります。
畠山氏は、三浦一族や千葉一族といった巨大な一族とも互角に渡り合っています。
重忠は、後に鎌倉殿の13人に選ばれる幕府の宿老「足立遠元」「北条時政」の娘と婚姻関係を結んでいます。なお、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条時政の娘(あき)役を福田愛依(ふくだめい)さんが演じられます。
畠山重能========三浦義明娘
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足立遠元の女======畠山重忠=======北条時政の女
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畠山重秀 畠山重保
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
これにより、北条義時(1163)とは義兄弟になります。
北条義時とは1歳違いであり、畠山重忠の乱の時でも、畠山氏が謀反を起こすはずがないと、かなり信頼できる関係だったようですね。
畠山重忠の年表
年代 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
長寛2年(1164) | 0 | 父「畠山重能」次男として畠山郷(埼玉県大里郡)で誕生 (母は三浦介義明の娘) |
治承4年(1180) | 17 | 頼朝挙兵、平家方として三浦氏の衣笠城を攻める |
長井ノ渡で秩父一族は頼朝に帰伏 | ||
寿永2年(1183) | 20 | 木曽義仲討伐に参加 |
一ノ谷の合戦に参加(源範頼軍) | ||
文治2年(1186) | 23 | 鶴岡八幡宮で静の舞の伴奏(銅拍子)をつとめる |
菅谷の地に新しく居を構える | ||
文治3年(1187) | 24 | 地頭領(伊勢国沼田厨)で代官の押妨・濫行事件あり 千葉胤正に召預けられ、恥じて絶食、赦免後、菅谷の地に戻る →藤原景時がこれを讒言したが、小山朝政、下河辺行平が対応 |
文治5年(1189) | 26 | 奥州合戦で頼朝軍の先陣を命じられる (右近衛大将拝賀の随兵7人の内) |
建久元年(1190) | 27 | 頼朝上洛時の行列の先陣となる(御家人最大の名誉) |
正治元年(1199) | 36 | 梶原景時の変(景時を弾劾する) |
建仁3年(1203) | 40 | 比企能員の変(北条側に見方) |
元久元年(1204) | 41 | 京都に上洛(実朝の妻を迎えるため) 平賀朝雅と畠山重保が喧嘩 |
元久2年(1205) | 42 | 子「畠山重保」が鎌倉由比ガ浜で討たれる |
畠山重忠の乱で鶴ヶ峰で合戦。重秀と共に敗死 |
治承4年(1180)に、頼朝が挙兵したときは、大番役で京都に滞在していたため、当時17才の畠山重忠が一族を率いることになったため、まずは平氏方として頼朝討伐に向かいます。
途中、鎌倉由比ガ浜で、頼朝方の三浦一族と遭遇しますが、父・畠山重能の妻は三浦義明の娘だったため、適当に戦ったように見せかける予定が、杉本城で監視していた「和田義茂(和田義盛の弟)」の早とちりで、畠山方を攻撃してしまいます。
それに逆上した畠山重忠が、他の秩父一族に声をかけて「衣笠城」へ攻め入ったという経緯があります。
畠山一族ゆかりの地
畠山郷(埼玉県大里郡周辺)での史跡
菅谷館の史跡
畠山郷から鎌倉街道沿いの菅谷に移した畠山重忠 菅谷館 居館跡です。
鎌倉での史跡
石碑
鎌倉市雪ノ下(鶴岡八幡宮近く)にある、畠山重忠邸址の旧跡案内石碑です。
鎌倉市由比ガ浜、一の鳥居横にある、重忠の子「畠山重保邸址」石碑と宝篋印塔です。
佐助稲荷神社
源頼朝が「かくれ里の稲荷」という神霊が枕元に立ち挙兵を勧め戦いに勝利。
後日「かくれ里」の地で祠を見つけた頼朝は、畠山重忠に命じて社を建立させました。
鶴ヶ峰古戦場での史跡
元久元年(1205年)畠山重忠が北条時政の策略にハマり自害、滅亡した場所「二俣川(鶴ヶ峰)古戦場」です。