本法寺(ほんぽうじ)
日蓮宗の本山で、洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ
永享8(1436)年に日親が東洞院綾小路に建立したと言われ、破却や法難等で点々とし、最終的に現在の地に移りました。
開山は日親上人
日親上人(1407-1488)は日蓮宗の僧侶。鎌倉や京都で布教活動を行いました。
日親上人は、室町時代に入ってから日蓮宗が他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを平気で受けるなどしていたため、日蓮時代を取り戻すため「不受不施義(ふじゅふせぎ|法華信者以外の布施を受けない、供養も行わない)」を打ち出すなど、ちょっと日蓮的な激しい性格だったのかもしれません。
そんな性格が災いしてか、永享11年には「立正治国論」を書いて、足利義教(室町幕府6代将軍)の怒りに触れて投獄、焼けた鍋に頭を被せられて”なべかむり日親”とも言われました。

生まれが上総国ということもあってか、日英(日親は甥)に学び中山法華経寺に入門した関係で、鎌倉小町にある妙隆寺(開山が日英)2世となります。
本阿弥家との出会い
日親が投獄されている時、同じく将軍足利義教の怒りに触れて投獄された人物がいました。それが本阿弥光悦の曽祖父「本阿弥清信」です。
二人は投獄中に出会い、本阿弥清信が熱心な法華信者になりました。
以来、本阿弥家は本法寺を菩提寺として寺を支え、後の光悦も伽藍の整備に力を尽くしたそうです。
巴の庭(本阿弥光悦作)
本阿弥光悦(1558-1637)の作と伝える三巴の庭(みつどもえのにわ)は国の名勝。


長谷川等伯の「仏涅槃図」
安土桃山時代に活躍した絵師・長谷川等伯(1539-1610)
能登国の七尾生まれ絵師として活躍してましたが京都へ、52歳の時には当時の画壇のボス「狩野派」の仕事(障壁画の裏側を書かせてもらうよう談判)を奪おうとまで。
養父が熱心な日蓮宗信者だったこともあり、61歳の時に書いた「佛涅槃図(国重文)」を本法寺に奉献しました。
※佛涅槃図など、宝物館は写真撮影禁止
京都検定本では、長谷川派として括られ、桜楓図(国宝|智積院)などが紹介されています。
本法寺墓地
墓地には本阿弥一族や長谷川等伯らの墓があります。

本法寺へのアクセス
拝観時間:10:00~16:00

最寄りバス停「堀河寺ノ内」で下車し徒歩3分、京都市営バス9、12系統
JR、京阪、阪急、地下鉄の駅からは遠いです。
近くには沢山の日蓮宗寺院や三千家ゆかりの建物が沢山あります。