壇ノ浦の戦い|幼い安徳天皇が犠牲になった、関門海峡で行われた最後の源平合戦

壇ノ浦の戦い|幼い安徳天皇が犠牲になった、関門海峡で行われた最後の源平合戦

壇ノ浦合戦 プロローグ

一か月前の1185年2月、四国・屋島にて平家軍を打ち破った源氏・源義経軍は、逃げる平家を追って西国まで移動していました。(源平合戦|屋島の戦い

屋島の戦い|源平屋島古戦場|義経の奇襲攻撃に平家軍が西海へ敗走
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また、同じく源氏・源範頼軍は豊後国(大分県)へ到着も兵糧が少なく統率が乱れて、また、義経の活躍もあり焦りを募らせていました。

しかし、頼朝の激励等もあり、源範頼軍も立ち直り、平家軍を挟み撃ちにできるような配置となっている状況下で壇ノ浦の戦いを迎えます。

5分で分かる壇ノ浦の戦い(要約)

1185年3月に行われた平家軍と源氏軍の最終決戦(源平合戦)が壇ノ浦の戦い。

この戦いで平家軍が敗れるが、源氏軍に対して最後の抵抗をみせ、当時の安徳天皇が叔母の二位尼(平清盛の妻)と一緒に入水自殺。三種の神器も海に没した。

3月22日 源平両軍が合戦に向けて動き出す

先日から船を集めていた源義経は、壇ノ浦を目指して出航した。

源氏方の三浦義澄は周防国(山口県)の大島(周南市南部)で義経と合流し、共に壇ノ浦の奥津(満珠島・干珠島)辺りに着陣した。

平家軍は源氏軍がこちらへ向かっていると聞いて、彦島を出発し赤間関を通過して田ノ浦(門司区)に到着した。

3月24日 壇ノ浦の戦い当日、平家敗北

壇ノ浦の海上で両軍は3町(約330m)を隔ててにらみ合い。

源平壇ノ浦古戦場

平家軍は500船を3手に訳で、山鹿、松浦党を大将として源氏軍に戦いを挑んできた。が、午の刻(正午)になって平家方が敗北濃厚になり、次々と入水した。

※1町は109m=60間だそう

4月11日 鎌倉にいる源頼朝の元に、勝利の便りが届く

源頼朝は父義朝の菩提を弔う為に今週した南御堂(勝長寿院)の立柱の儀式の最中に、平家方を滅ぼしたという飛脚の言葉と共に義経の戦いの記録を受け取った。

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壇ノ浦の戦いゆかりの地マップ

壇ノ浦合戦ゆかりの地

みもすそ川公園

関門海峡の一番狭まったところにある本州側(山口県)の公園。
この潮の流れが速く、変化が激しい海の難所で、源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」が繰り広げられた。

源氏軍ゆかりの地

満珠島・干珠島(源氏軍本拠)

源氏軍が兵を終結させたのがこの島の周辺。
水戰が初戦の義経は、近くの漁師たちから潮流の知識を得て戰に向かったという。

大蔵神社(おおとしじんじゃ)

源義経が作った弓矢を捧げて戦勝祈願を行ったとされるばしょ。後に神社に。
その弓矢を、彦島の平家軍へ射込んだことから、平家軍は壇ノ浦へ船をすすめたという。

平家軍ゆかりの地

彦島(平家軍本拠)

山口県下関市にある人工の陸繋島(砂州の形成で陸と繋がった昔の島)で関門海峡で周りを囲まれています。

赤間神宮

平清盛の孫、安徳天皇(第81代)を祀る神社。
「海の下にも都がある」と二位尼と入水自殺。赤間神宮の水天門は竜宮をイメージしているそう。

平家一門の墓

壇ノ浦の戦いで平家軍の対象だった平知盛をはじめとした平家一門の武将を祀っています。
※赤間神宮の境内の中

鎌倉の歴史把握に役立った書籍

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