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熊谷(次郎)直実(くまがい なおざね)
1141-1208。武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠地とした武将。私市党関係者。
一ノ谷の戦いで平敦盛を討ち取ったことが、能の演目「敦盛」等の作品に取り上げられる。
熊谷直実の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
永治元(1141)年 | 0 | 誕生 |
保元元(1156)年 | 16 | 保元の乱で源義朝(頼朝父)の下で戦う |
平治元(1159)年 | 19 | 平治の乱で源義平(頼朝兄)の下で戦う |
治承4(1180)年 | 40 | 石橋山の戦いまでは平家側に属し、後に頼朝に臣従する 佐竹氏征伐で大功を立て熊谷郷の支配権を安堵 |
寿永3(1184)年 | 44 | 一ノ谷の戦いに参陣。義経の奇襲部隊。 清盛の甥、平敦盛(当時17才)の首を泣く泣く斬る |
文治3(1187)年 | 47 | 流鏑馬の「的立役」を拒否し所領の一部を没収 |
建久3(1192)年 | 52 | 久下直光の久下郷と熊谷郷の境界争いについて、頼朝の前で口頭弁論 |
建久4(1193)年 | 53 | 法然の弟子になる、蓮生(れんせい)と称す |
承元2(1207)年 | 67 | 死去 |
1189年、頼朝が奥州征伐に向かう途中、下野国古多橋の駅に到着され、小山政光が食事を献上した際、頼朝の御前に祗候していた人物を「何者でしょうか?」と聞かれ
源頼朝「彼は本朝無双の勇士熊谷小次郎直家である」
小山政光「どのような理由で無双と称される?」
源頼朝「平氏追討の際、一ノ谷をはじめとする戦いで、父直実と共に命を懸けて度々戦ったからだ」
小山政光は大いに笑って
「主君の為に命を懸けて戦うのは何も直家に限ったことではないが、このようなものは使える郎党がいない為、直接勲功に励んで名を挙げたのでしょう。政光ごときは、ただ郎従を派遣して忠を尽くすだけ。であれば、今回は(奥州合戦)では自ら合戦を遂げて無双の称号を賜りなさい」
と、子息の小山朝政、長沼宗政、結城朝光に命じた。
と吾妻鏡に出てきます。このことから、
小山氏などと違い、熊谷氏仕える郎党もいない小さな一族。ということが分かります。
小山氏は、熊谷氏のことを思いっきり下に見ていますね・・・。
吾妻鏡より
直実、的立役を頑なに断る
直実の戦ってこその東国武士というプライドが、頼朝の考え方とちょっとズレてきた、源義経のような言動です。
治承寿永の乱(源平合戦)が終わって戦が減って恩賞を頂く機会も減ってきている中、世の中が変わってきているのに、変われない直実が描かれているようです・・・。
文治3(1187)年 8月4日
鶴岡八幡宮での放生会に先立ち、流鏑馬の射手と的立役を割り振られ、熊谷二郎直実は上手の的立を命じられたが、怒りを頂きこう言った。
「御家人はみな同列。しかし射手は騎乗し的立は歩行で、優劣の差別をしているようなもの。この命令には従うことはできません。」
「このような役所は優劣をつけるようなものではない、そして的立役は下の務めではない。新日吉社の祭の院の御幸の時は、本所の院の衆を召して流鏑馬の的が立てられた、順序からするとむしろ射手の役を越えるもの」
直実はそれでも命令に従うことは出来ないとしたため、所領の一部を没収されたという。
久下権守との境界対決
ここでは、熊谷直実が出家した原因となった出来事が書かれています。
一ノ谷の合戦など、命がけ(一生懸命)で戦い、御恩として得た所領を、こういう相論で争うことなる事態「俺の今までの鎌倉殿への奉公はなんだったんだ」という気持ちになったのかもしれません。
建久3(1192)11月25日
早朝、熊谷直実と久下直光が頼朝の前で、武蔵国の所領の境界の相論の事で訴訟の対決をした。
熊谷直実は武勇はあるが、討論下手で説明が分かりにくく、頼朝から何度も尋問してたらブチ切れて
「梶原景時が久下直光の贔屓しているのだから、直光が勝訴するのは明白。だから何度も御下問を受けることになっているし、私の文書など無用だ。もう、どうすることもできぬ!」
と言って、書いてきた文書を丸めて坪庭の中に投げ入れ席を立ち、自らの刀で髻を切って、門を飛び出し行方をくらました。
頼朝はとても驚いて、直実の行く手を追って遁世を止めるよう御家人・衆徒らに命じた。
同年12月11日
走湯山の住僧「専光房」が使者を送ってきた。
「東海道に向かって走っていたら、僧の姿をして上洛を企てていた直実に出会いました。頼朝さまの命令と言って抑え留めても全く承知しなかったので、出家の功徳を褒め称え、草庵に誘い、僧侶たちを集めて浄土宗の教えについて語りました。
そして、本来仏門に入ることはどういう事をかを、花山法皇などの例えを持って伝え、・・・(省略)・・・出家されても以前のように本来の場(武士)に戻るがよいのでは?」
と直実を諫めたとし、その諫めた書状を子孫の賞賛すべき手本として伝えるため中原仲業に預け置かれた。
同年12月29日
走湯山の住僧「専光房」が年末の巻数(僧が願主の依頼に応じて読誦した経文等)を進上、ついでに
「直実法師の上洛は思いとどまってくれました。だた、『すぐに御所に行くことは出来ない、しばらくは武蔵国に隠居する』と直実は言っております」
熊谷直実周辺の系図
熊谷直実は、2歳の時に父親を亡くして孤児になったため、母方の伯父「久下直光」に養われ、熊谷郷を与えました。久下は武蔵国大里郡久下郷から。
ですが、久下家とはあまり仲が良くなかったせいか、人生後半戦は領地争いとかで喧嘩をしています。
平直方
| 成木大夫(私市党)
| ┌---┴ーー┐
熊谷直貞(1126-1142)====久下直俊娘 直俊娘の姉妹====久下(権守)直光
├-------┐ ┌----(養父)--------┘
熊谷直正 熊谷直実(1141-1207)====土肥実平娘
|
熊谷直家(1169-1221)
|
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
※系図には諸説あります。久下家と熊谷家は同族だったようです。
熊谷氏ゆかりの地
熊谷寺(熊谷直実館跡)
金戒光明寺
熊谷直実の師、法然上人がはじめて草案を営んだ場所で浄土宗最初の寺院。開山は法然上人。
幕末に京都守護職会津藩一千名の本陣にもなったことで、さらに有名に。


熊谷堂(蓮池院)
熊谷直実が出家し、法力房蓮生となり庵を結んだ場所が蓮池院(現、蓮池院熊谷堂)

熊谷直実・平敦盛供養塔
法然上人の御廟所の前に対になって供養塔が設置されています。






直実鎧掛けの松
熊谷直実が洗った鎧を掛けたといわれる松。御影堂(大殿)の右側に。


須磨寺(源平の庭)
真言宗の大本山「須磨寺」。
須磨寺は源氏の大将「源義経」の陣地であったと伝えられていて、境内には平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現した庭があります。一騎打ちの詳細は須磨寺HPで
塔頭の一つが蓮生院。蓮生は熊谷直実が出家したのちに名乗った名称で、熊谷直実ゆかりの寺院です。


満福寺(熊谷堂)
▶ 岐阜県安八郡墨俣212|🅿なし|公式HP
熊谷蓮生房由緒の寺。天台宗の伽藍として寛和年間(985年頃)に創建。
熊谷蓮生房の猶子、小太郎直照・祐照法師が浄土真宗の宗祖親鸞聖人に帰依し、満福寺と号した。
後に、熊谷蓮生房や親鸞聖人の教化を受けて隆盛を極める。境内の熊谷堂(昭和63年に建立)にある熊谷蓮生房の木造は寺宝。


鉈捨藪跡
京都大原の三千院と勝林院の間の道沿いにある史跡。
法然上人の大原問答の時の話です。
法然が言い負けたら相手を討たんとか、昔武士だった熊谷直実らしい考え方ですね。

