和田朝盛|和田義盛の孫で、和田一族の嫡流。源実朝の重臣として仕える

和田朝盛|和田義盛の孫で、和田一族の嫡流。源実朝の重臣として仕える

2022-08-05

和田朝盛(わだ とももり)

生没年不詳。和田義盛の孫。父の和田常盛は和田義盛の嫡男。
源頼家実朝に仕える。和田合戦では生き残るも、承久の乱では後鳥羽上皇方につき敗北。

嫡男が佐久間氏として、織田信長の重臣「佐久間信盛」まで繋がります。

和田朝盛の簡易年表

年代年齢出来事
生誕不詳
建保元(1213)年将軍「源実朝」と和田義盛に挟まれ、出家し高円坊と名乗る
京へ向かうも、義盛の4男「義直」に連れ戻される
和田合戦
和田一族は敗北するが、和田朝盛は生き延びる
嫡男「家盛」と共に、安房国狭隈郷「佐久間家村」の許に身を寄せる
※嫡男の家盛は、佐久間家村の養子となる
承久3(1221)年承久の乱
後鳥羽上皇方に付くが敗北、鎌倉幕府方にいた嫡男に捕縛される
その後の動向は不明

吾妻鏡より

源実朝の重臣として活躍

和田合戦が起る直前まで、和田朝盛は和歌に長けていたこともあり、源実朝の側近として活躍。これが、その後の和田合戦で、和田側に付くか実朝側に付くかで、朝盛を苦しめます。

建保元(1213)年 2月1日

幕府で和歌の会が行われ、北条時房、北条泰時、伊賀光宗、和田朝盛らが参加した。

翌 2月 2日

実朝の側に仕える物の中で芸能に優れたものを選んで学問所番(将軍の学問所に交代で勤務をし、和漢の故事などを教えた人)とした。

二番 和田朝盛

泉親衡の乱の首謀者「和田胤長」の身代わりに

和田胤長はついに許されず遠方に配流となった。その事で、幼い娘が病気になり無くなりそうだったところ、胤長に似ていた朝盛が娘を訪問。その顔を見て亡くなった。

建保元(1213)年 3月17日

和田平太胤長が陸奥国岩瀬郡に配流された。

同年 3月21日

和田胤長の娘(6歳、荒鶴)は、父が遠くに行ったのを悲しむあまり病気となり命も危うくなっていた。胤長に似ていると評判だった朝盛が、父が帰ってきたと言って荒鶴を訪問。荒鶴は一瞬その姿をみて、ついに亡くなった。夜に火葬し、母(27歳)は出家を遂げた。

和田朝盛、出家

泉親衡の乱後、源実朝(鎌倉幕府方)と和田義盛(和田一族方)との間に挟まれていた朝盛は出家し京へ。しかし、和田義盛は、朝盛は武勇に優れ軍勢の棟梁となるべき人物だったため、これを許さず、連れ戻すように義直に命じます。

建保元(1213)年 4月15日

和田朝盛は源実朝の寵愛を受けていたが、祖父一党が恨みを頂き御所に出仕せず、朝盛も朝夕の仕事を放り投げて蟄居した。その間、出離生死の道を学び、今晩ついに出家を遂げようと、長年の名残を思って御所に向かった。実朝は和歌の御会を行っていたが、朝盛が優れた和歌を献じたので、実朝は感心され、朝盛は最近祗候していなかった事情を弁明し、主従ともわだかまりを解いた。

帰宅後、朝盛はすぐに出家、そのまま京へ向けて出発した。

翌 4月16日

朝盛の出家が、父「和田常盛」、祖父「和田義盛」に伝わり、また寝室から一通の書状が見つかった。

“謀反の企ては、今となってはどうすることもできないでしょう。しかし一族に従って主君(実朝)に弓を引く事はできません、また、主君の許に参じて、祖父に敵対することもできません。そのため出家して、自他の苦しみや煩いから逃れるしかありません”

義盛はそれを聞いて、たいそう怒り、法体であっても追って連れて帰ってくるように和田義直に指示した。

翌々 4月18日

和田義直が和田朝盛入道を伴い、駿河国から急いで帰ってきた。
和田義盛と対面し、よくやく鬱憤が晴れた。また、実朝からのお呼びがあり黒衣を着たまま幕府に参上した。

和田合戦は、その半月後、健保元(1213)年5月2日に起きてしまいます。

和田朝盛周辺の系図

和田朝盛は、和田常盛(父)の嫡男。
父の和田常盛は、祖父和田義盛の嫡男のため、和田一族の棟梁となる人物です。

杉本義宗
 ┣----┳------------------┳
和田義盛  和田義茂               和田義長
 ┣----┳----┳----┳        |
和田常盛  義直   義重   朝比奈義秀    和田胤長
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和田朝盛
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佐久間家盛

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

父:和田常盛

建暦3(1213)年の和田合戦では一族と共に戦うも敗北。甲斐国へ逃げて、横山時兼らと自害。享年42.
横山時兼の叔母は和田義盛の妻。小野時兼とも。

         ┏---?---┓
和田義盛===横山時重の娘   横山時広  ※横山氏は元々、小野朝臣姓
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和田常盛            横山時兼  
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和田朝盛

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

佐久間氏とは?

和田朝盛、家盛父子が、和田合戦敗北後に身を寄せた佐久間氏。
系図を辿れば、三浦義明の孫「家村」が安房郡平群郡狭隈郷(現:鋸南町)の佐久間を領したことに始まります。

三浦義明
 ┣-----┳-----┳----------┓
杉本義宗  三浦義澄  多々良義春(3男)  佐原義連
 |     |     |
和田義盛  三浦義村  佐久間家村(4男)
 |     |     |
和田常盛  三浦泰村  (養子)
 |           |
和田朝盛         |
 ┗----------佐久間家盛            

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

承久の乱で、鎌倉幕府方に付いた佐久間家盛は、恩賞として尾張国御器所(ごそぎ)を賜り子孫が定着、織田信長の重臣として仕えた「佐久間信盛」と繋がります。

和田朝盛ゆかりの地

三浦市初声町高円坊(はっせまち こうえんぼう)

初声町高円坊は三浦市の町名の一つです。

和田朝盛は、源実朝(鎌倉幕府方)と和田義盛(和田方)のどちらに味方をするかに悩み苦しみ、出家し高円坊と名乗りますが、その出家名が地名の由来と言われています。

これは、平重盛が後白河法皇と平清盛のどちらに付くかで大いに悩んだ場面と重なりますね。

和田朝盛公の墓

高円坊日枝神社の前、畑の縁に朝盛塚、和田朝盛墓の石碑が設置されています。

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