名馬「池月」|宇治川の先陣争いで一番乗りの名誉に輝いた佐々木高綱の名馬

名馬「池月」|宇治川の先陣争いで一番乗りの名誉に輝いた佐々木高綱の名馬

池月(いけづき)

名馬「池月」は、ライバル馬「磨墨」と共に、木曽義仲の討伐戦の宇治川の戦いで、先陣を競い合った名馬です。(宇治川先陣物語)

名馬「池月」の由来 エピソード1

治承4(1180)年 8月の石橋山の戦いに敗れて、安房に逃れた頼朝は、千葉常胤上総介広常等の参向を得て、再挙して鎌倉へ向かう途中に、この千束郷の大池(洗足池)に泊り、八幡丸の丘(千束八幡神社)を本陣として、武蔵国等の近隣諸豪の参陣を待っていた。

明るく照り輝く月が池に映るのを観賞していると、何処よりか一頭の野馬が頼朝の陣所に向かって飛来して、嘶く声は、天地が震えるようだった。

頼朝の郎党たちがこれを捕まえて、頼朝に献上すると、馬体がとてもたくましく、青い毛並みに白い斑点を浮かべ、池に映る月影の様だったことから、池月と命名し自分の馬とした。

※ちなみにこの場面は吾妻鏡には書かれていません・・・。
頼朝一行が江戸川・隅田川を渡ったのが治承4年10月2日、鎌倉に到着したのが10月7日なので、その間でしょうか。

名馬「池月」の由来 エピソード2

昔テレビで放送していた「まんが日本昔ばなし」その中に「池月」という話があります。

鹿児島県の南、開聞岳の横にある「池田湖」

この側にある牧場にいた白い母馬が、白い仔馬を産み、それから池田湖で泳ぎたくましく育ち「その昔、山幸尊が竜宮から連れ帰った龍馬の子孫に違いない」と評判になり、それが、遠く鎌倉の源頼朝の耳に入り、頼朝が所望。

仔馬は連れてこられ、母親は悲しさのあまり暴れて、池田湖に身を投げたそう。
その里の人らは母馬を偲んで、湖の岸辺に観音像(小浜の馬頭観音)を祀り、鎌倉に連れていかれた仔馬は池田湖にちなみ池月と名図けられたと。

いろんな説があるにせよ、最終的に源頼朝が手に入れたことは間違いなさそうです。

池月・磨墨ゆかりの地

名馬池月像の場所

洗足池のほとり、千束八幡神社のすぐそばに建てられた「池月」像は、平成9年11月7日に完成したようです。

千束八幡神社

貞観2(860)年に豊前の宇佐八幡宮から分霊した神社。
頼朝の旗揚げに関係があって、「旗揚げ八幡」とも呼ばれている。9月第1土日が例祭。

佐々木四郎高綱

佐々木四郎高綱は、頼朝の父義朝の代から代々従ってくれる近江源氏で佐々木義秀の四男。頼朝の挙兵に当初から従い頼朝からの非常に信頼された人物です。

佐々木高綱|佐々木秀義の4男。愛馬「池月」で宇治川の先陣争いを演じる
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宇治川の先陣争い

寿永3年1月20日、木曽義仲軍と源義経軍は宇治川で合戦。(木曽義仲の追討
冷たく流れの強い宇治川に馬を乗りいれた、磨墨に乗った梶原景季と、池月に乗った佐々木高綱が先陣争いを演じた。

結果は、池月に乗った佐々木高綱が先陣争いを制する。
この一番乗りの功名が今に至るまで、名馬の誉を伝えています。

木曽義仲の追討|宇治川の戦い、粟津の戦いで敗北した朝日将軍
木曽義仲追討(治承・寿永の乱|源平合戦) 京都から平家を追い払い、源氏の中で京へ一番乗りを果たした木曽義仲軍。 しかし木曽の兵が町の人にいろいろ乱暴し、今日のし…
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ライバル馬「磨墨(するすみ)」

頼朝が「池月」より先に手に入れていた、もう一頭の名馬「磨墨(するすみ)
葬られた場所にある「磨墨塚」が南馬込に現存するようです。

「平家物語」によれば、磨墨に乗っていた「梶原景季」は、本当は「池月」が欲しくて頼朝にお願いしたが、「この馬は万が一の時に自分が乗って出陣するときの馬だ。代わりに磨墨はどうだ?池月に劣らない馬だぞ」

と、許してくれずに代わりに「磨墨」を貰って、それに乗り、木曽義仲追討に向かった。

木曽討伐軍の中に、磨墨より良い馬は居ないなと、満足気な梶原景季の目に「池月」が。
「誰の馬か?」と、郎党に聞くと「佐々木高綱」の馬だと言う。

「義仲四天王と勝負して死ぬか、西国で平家の侍と戦って死のうと思っていたが、殿(頼朝)が自分から佐々木へ思いを変えられたのでは、そんなことをしてもしょうがない。
高綱と刺し違えて有能な侍が二人死んで、殿に損をさせてやろう」

高綱を殺そうとしたが、高綱は冷静に「景季殿が所望してダメだった馬を、自分が殿に頂けるはずはない、これは盗んだのだ」と返答。

「自分も盗めば良かった」と笑った景季だった。

鎌倉の歴史把握に役立った書籍

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