梶原景時最期の地(静岡県)|清見関から梶原山山頂での自害までの史跡巡り

梶原景時最期の地(静岡県)|清見関から梶原山山頂での自害までの史跡巡り

2021-12-19

梶原一族の最期、駿河国にて

梶原一族いくさの跡 説明板

光鏡院(静岡市葵区瀬名1-38-36|梶原山山頂への坂道に入る手前にある寺院)の山門横にある説明板。

梶原一族が鎌倉から京へ向かう途中、清見ヶ関から鎌倉幕府軍と戦になった場所と順番の説明が書かれています。こういう説明板は現地でしか見ることが出来ないから必見です!

梶原一族いくさの跡 詳細

正治2(1200)年 正月19日

鎌倉幕府の追放命令を受けた梶原景時とその一族は、夜になって一之宮(現在の神奈川県寒川町)の館を脱出する。いったん京へ上り、反鎌倉勢力と甲斐源氏を立てて源氏政権の回復を目指した。

正治2(1200)年 正月20日 亥の刻(午後8時~10時)

清見ヶ関

駿河興津清見ケ関に到着。
ココ駿河国の守護は北条時政で、事前に密命を受けていた追撃部隊(旧知の飯田五郎も)と交戦。一族は西へ逃げる。

庵原

地理も分からず追撃も厳しく、三十余騎と半減した梶原一族は高橋(高源寺方面)へ走ると、敵の第二陣と遭遇してしまう。

大内

ここで、梶原景茂(景時3男)と吉香小次郎の一騎打ち。
景茂は、遠路を休まず馬を飛ばし、夜も寝ず、飲まず食わずでぶっ通し戦って、身も心も疲れ果てていたので、力尽きて首をはねられてしまう。

長男「景季」は形勢は不利と見て、父「景時」を先に逃がした。

矢射タム橋

景時は西へ逃げ、瀬名川橋(矢射たむ橋、矢ハリ橋)に差しかかると、新手の地侍数十人に矢を射かけられたが強行突破。

矢崎

しかし敵も多く、前進をあきらめ、矢崎で戦っていた味方に合流した

梶原山山頂

残った、景時景季(長男)、景高(次男)の父子三人と数人の郎党。
夕日無山(現梶原山)へ向かう途中の岩間から、清水が湧出していたので、渇ききった咽喉をまず潤し、顔を洗い、鬢のほつれを直す。

最後、梶原一族郎党は頂上に登った後に自害。景時は61才、景季39才、景高36才。

梶原一族ゆかりの地マップ

清見ヶ関

▶ 静岡市清水区興津清見寺町|🅿あり(清見寺P)|

鎌倉から京都へ向かう途中にまず通過する場所「清見ヶ関」、旧関所(蝦夷に備えて設けられて)。
今は清見寺の前に案内標だけ建っています。

清見寺(血天井)

▶ 静岡市清水区興津清見寺町418-1|🅿あり|公式HP

清見関の傍らに関所の鎮護として建てられた仏堂が清見寺の始まり。

清見寺の大玄関の天井板が血天井と言われています。

正治2(1200)年 正月、梶原景時の一族が鎌倉を出奔し西国に赴く途中、当初清見関にさしかかり一戦を交ふ。
この建物の一部は清見関の古材を使用すという。

現に戦いの血痕を天井板に留む。

高源寺(梶原一族供養塔)

▶ 静岡県静岡市清水区高橋2-7-4|🅿あり|公式HP

高源寺の境内(お寺を入って左側)に梶原一族の供養塔と説明板が設置されています。
一族郎党がさらし首にされた場所に建てられた後、高源寺に移動してきたようです。

表面に「不尽乾坤燈外燈龍没(悠久無限の天地にあって、太陽と月の光は消えることがない。その光を浴び、龍の如き英雄がここに眠る)」
横面に「三拾三人是也(景時一族三十三名)」と書かれています。

梶原山山頂(梶原景時終焉の地)

▶ 静岡県静岡市葵区長尾1134|🅿あり|

梶原山山頂(標高280m)に行くには、ハイキングコースと自動車でも行くことができます。

自動車の場合は下記写真のように、舗装はされていますが、細い山道を10分ほどクネクネ登って行かないとダメで結構大変です。ハイキングだと往復1時間30分ほどかと。

鎌倉の建長寺 柏樹庵管長猊下の筆で「鎌倉本體の武士 梶原景時 終焉の地」と彫ってあります。

梶原景時の二男景高の子「景俊」が梶原山の頂上に梶原堂と、麓の矢崎に景時の法名「龍泉院殿梶原景時公大居士」をとった龍泉寺を建てた。

梶原山山頂の梶原堂は後に龍泉寺の傍に移されたが、龍泉寺が廃寺。今は梶原堂と墳墓が残されている。

梶原景時とその一族が滅んだ9年目
承元3年5月20日(1209年)に、北条政子が法華堂にて梶原一族の供養祭を実施した。

最後に

梶原景時終焉の地については、まだまだ見に行けていない場所(ex 梶原堂など)がありますので、今後の課題にしたいと思います。

鎌倉の歴史把握に役立った書籍

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