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富士の巻狩り
源頼朝が征夷大将軍となった翌年、建久3(1193)年。
鎌倉幕府の武力を日本中に示すために、3~5月にかけて三か所で大規模な巻狩りを実施しました。
3月 信濃国三原野
4月 下野国那須野
5月 駿河国富士野・藍沢
富士の巻狩りは、3大巻狩りの一つ、駿河国で行われた大規模な巻狩りの事です。
そして、この富士の巻狩り中に、日本三大仇討ちの一つ「曽我兄弟の仇討ち」が起ります。
富士の巻狩り簡易年表
建久4年 | 出来事 |
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5月8日 | 源頼朝が富士野・藍沢の夏狩を見る為に、駿河国へ向かう |
5月15日 | 藍沢で狩が行われた、その後は終日酒宴 |
5月16日 | 富士野で狩が行われた。源頼家が初めて鹿を射止める |
5月22日 | 頼家が鹿を射止めたことを、北条政子に報告するも感心せず |
5月27日 | 工藤景光の災難、狩猟失敗の後、発病 |
5月28日 | 曽我兄弟の仇討ち決行日 曽我兄弟に工藤祐経が討たれる、その他数名の武士が負傷する |
5月29日 | 曽我五郎時致への尋問が行われた |
5月30日 | 曽我兄弟が仇討ち前に母に送った手紙を頼朝が読んで涙する |
6月1日 | 曽我十郎祐成の妾「虎」が呼び出されるも放免となる |
5月28日 曽我兄弟の仇討ち 詳細
子の刻(夜11~1時頃)に、亡くなった伊東祐親の孫、曽我十郎祐成と曽我五郎時致が、富士野の御旅館におしかけ、工藤祐経を殺害した。
たまたま、一緒にいた王藤内(工藤祐経に恩があった)もともに殺害された。
祐経・王藤内の相手をしていた遊女らは悲鳴を上げ、さらに、曽我兄弟が大声で「父の敵を討ち取ったぞ!」と叫んだ為、大騒動になった。
警護の者が駆け付けるも、辺りは真っ暗だったため、曽我兄弟によって多くの人が傷を受けた。
愛甲三郎、海野幸氏、堀藤太らが負傷、宇田五郎は殺害された。
その後、曽我十郎祐成は仁田忠常に立ち向かい討たれ、曽我五郎時致は頼朝の御前を目がけて走った。
頼朝は剣を取って立ち向かおうとしたが、大友能直が押しとどめ、小舎人童五郎丸が時致を搦め捕った。
大見小平次に身柄を預け、和田義盛、梶原景時が工藤祐経の死骸を検視した。
曽我兄弟周囲の系図
曽我兄弟の仇討ち相手は「工藤祐経」
工藤祐経は、所領争いから伊東祐親を討とうとしたが、近くに居た子の河津祐泰を殺してしまった。
工藤祐隆================後妻
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伊東祐家 連れ子
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伊東祐親 工藤祐継
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河津祐泰 伊東祐清 八重姫 工藤祐経 宇佐美祐茂
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曽我祐成 曽我時致 工藤祐時
[日向伊東氏]
河津祐泰の妻は、曽我祐信に再婚し、兄弟は河津から曽我を名乗るようになります。
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狩野茂光 伊東祐家
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曽我祐家 伊東祐親
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先妻===曽我祐信===満江御前===河津祐泰(曽我兄弟の実父)
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曽我祐綱 曽我五郎祐成 曽我十郎時致
源頼朝は伊東祐親に八重姫との子供を殺害されていることもあり、曽我兄弟は御家人も成れず、継父の曽我祐信も前妻の間に嫡男が居るため相続する土地も無く、不遇の人生を送っていた。
富士の巻狩りゆかりの地
富士の巻狩り石碑(朝霧高原もちや)
▶ 静岡県富士宮市猪之頭1114-1 朝霧高原もちや内|🅿あり|
ドライブイン朝霧高原もちやの敷地内、円形のお土産屋の建物の横に石碑が建っています。
ただ、石碑しかありません。
白糸の滝や工藤祐経の墓より北側に位置しています。
曽我の隠れ岩
▶ 静岡県富士宮市上井出|🅿あり(白糸の滝駐車場から徒歩数分)|
白糸の滝・音止めの滝から、工藤祐経の墓へ行く道の途中に大きな岩と説明板があります。
曽我兄弟の隠れ岩の道標も分かり易い場所にあるので、迷わないと思います。
ここから、曽我兄弟は工藤祐経の宿泊所(工藤祐経の墓)を除いて、仇討ちの機会をうかがっていたそうですね。
工藤祐経の墓
▶ 静岡県富士宮市上井出351|🅿あり(白糸の滝駐車場から徒歩数分)|
曽我兄弟の隠れ岩から、130m先にある小さな社のような祠のような。
工藤祐経は陣所に居たところを、曽我兄弟に殺されているので、この墓がそのまま陣所跡と考えてよさそうです。
白糸の滝・音止めの滝
▶ 静岡県富士宮市上井出273-1|🅿あり|
世界文化遺産「富士山」の構成資産の一つが白糸の滝です。
白糸の滝は源頼朝が和歌を詠んだという場所、音止めの滝は曽我兄弟が仇討ちの相談をしているときに「うるさい滝の音だな」と言ったら、音が止んだというところから名前がついたそうです。
音止めの滝は近くには寄れずに遠くから眺めます。
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狩宿の下馬サクラ
▶ 静岡県富士宮市狩宿98-1|🅿あり(ただし数台)|
源頼朝が富士の巻狩りの際に、この桜の前で馬を下りたとされることから下馬サクラと。桜の奥には、中世の武士「井出家」の家があり、頼朝が富士の巻狩りの際に泊まったという。
住所の狩宿はそのから来ているようです。