和田合戦|鎌倉市中で行われた最大の御家人闘争、そして和田一族の滅亡

和田合戦|鎌倉市中で行われた最大の御家人闘争、そして和田一族の滅亡

和田合戦の全貌

和田合戦の原因:泉親平の乱

建暦3(1213)年2月15日

和田合戦が起きる約三か月前の出来事

御家人の千葉介成胤が一人の法師を生け捕って、北条義時に身柄を進めてきたことに始まります。
法師は謀反者たちの使者でした。

2月16日 泉親平が首謀する、鎌倉殿に対する謀反が露見

(安念)法師が白状。信濃国の住人「泉小次郎親平」が、一昨年から謀反を企てて、源頼家の若君「栄実」を大将軍として、北条義時を殺害しようとし、それに与した人たち200人近くの身柄を捕らえました。

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その中に、和田義盛の子、義直、義重、甥の胤長が加わっていたことが和田合戦の引き金になります。他にも上総広常の甥、渋川兼守(歌の橋に関連)なども。

3月2日

謀反の首謀者「泉親平」が筋替橋に隠れているとの噂があり、御家人を遣わしたが合戦の後逃げられてしまった。

3月8日 膨れ上がる和田義盛の逆心

上総国伊北庄(現いずみ、勝浦市付近)の所領にいた和田義盛は、鎌倉で兵乱が起る噂を聞きつけて鎌倉へやってきた。御所に参上し、源実朝と対面し、今までの功労や子「義直・義重」への処分に心を痛めていることを訴えた。実朝は感心し、審議を経ないで二人の息子の罪を許した。

3月9日

翌日、和田義盛は一族98人を引き連れて、甥の「胤長」の赦免を求めるため、再度、御所に伺った。
取次は大江広元。しかし、胤長は今回、特に策謀を廻らせた首謀者で許すわけにはいかないと、源実朝の意向として北条義時が伝えた。

しかも、すぐに二階堂行村(13人の合議制の一人、二階堂行政の子)に引き渡して閉じ込めておくようにと、一族が列座する前で引き渡した。17日に胤長は陸奥国に配流された。

大恥をかくハメになった和田義盛は、北条義時に対し恨みを抱くようになる。

3月19日

横山時兼が甲冑を着た50名程度の兵と共に和田義盛のもとに来た。
御所で和歌会があったが、警戒した伊賀守朝光が中止するよう実朝に伝え、中止となる。

3月21日

胤長の娘が父を心配するあまりに病気となっていたため、胤長に似ていると噂の和田朝盛を父の代わりにして娘と対面したが一目見た後に死亡した。母親は出家。

和田朝盛の墓

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3月25日 

流罪となった和田胤長の屋敷は荏柄社の前にあり、御所の側だっため近習の者が欲しがったが、
義盛は「頼朝さまの時より、一族の所領が没収されたら、一族の者が優先して拝領していたから、私が拝領したい」と御所の女房を通じて訴えたところ、すぐに聞き届けられ、和田義盛は喜んだ。

4月2日 甥胤長の所領を義時に奪われ、義盛が決起!

北条義時が胤長の荏柄社の前の屋敷地を拝領された(義盛から奪った格好に)
当然に義盛は不満を抱くが、時勢を鑑み事情を訴えることができなかった、が今回のことで義盛の逆心はますます抑えがたく、決起した。

4月15日~18日

祖父の和田義盛と仕えていた源実朝との間で、悩んでいた和田朝盛が蟄居し出家し京都へ向かう。
それを知った、和田義盛は連れ戻すよう(朝盛は大切な嫡流)に子の義直に指示。

最終的には義盛が朝盛を伴い、鎌倉へ戻ってきた。

和田合戦(本戦)

建暦3(1213)年 5月2日 和田合戦の開戦

和田義盛の館に軍兵が集まった様子をみた、八田朝重八田知家の子)は使者を大江広元に送り、受け取った広元は御所へ。

三浦義村と弟胤義は、初め一族の和田義盛に与すると承諾していたが、「先祖の三浦為継が主君の源義家に仕えて後三年合戦の後その恩録を受けてきた、今、一族の勧めに従い、累代の主君(源氏・実朝)を射るのは天罰を免れない」

と和田一族を見限り、北条義時に和田義盛が挙兵したと伝えた。

申の刻(午後4時頃)

和田義盛は一味を率いて、御所を襲った。

<和田一族軍>
嫡男常盛、孫朝盛、三男朝夷名三郎義秀、四郎義直、五郎義重、六郎義信、七郎秀盛
土屋義清(土屋宗遠の子)、渋谷高重、土肥惟平(土肥実平の孫)、岡崎実忠(佐奈田与一義忠の子)、梶原六郎朝景(梶原景時の弟)、景衡、景盛、大庭景兼(大庭景義の子)、深沢景家・・・など150の軍勢

味方になった御家人は、和田義盛や姻戚関係の中村党関係者で、相模国内ではかなりの規模になります。

<鎌倉幕府軍>
北条義時、大江広元、北条時房北条泰時、北条朝時、
足利義氏(足利義兼の子)、三浦義村三浦胤義、高井重茂(和田義茂の子)、武田信光、武田信忠、
八田知尚、波多野経朝、佐々木義清、結城朝光、長尾景茂・胤景(長尾定景の子)

対する鎌倉幕府軍は、北条氏や足利、武田などの源氏、三浦嫡流です。鎌倉幕府が真っ二つに割れている状況が良く分かりますね。

この戦いでは、朝夷奈三郎義秀が大活躍、鎌倉幕府軍の兵をどんどん討っていきます。

戦いは夜中も続き、明け方になり、和田義盛は兵が力尽き、矢も無くなり、疲れ切って、馬を駈けて前浜(現由比ガ浜)辺りまで退去しました。

5月3日 和田義盛が討ち死

小雨が降る仲、和田義盛は兵糧を絶たれ、馬も疲弊。

酉の刻(午後6時頃)

和田四郎義直(37歳)が討ち取られた。
父の義盛は格別に嘆き悲しみ「今となっては合戦に励むのは無益」とアチコチ迷走し、遂に討ち取られた

五郎、六郎、七郎も誅殺され、朝夷奈三郎義秀(38歳)は船を出して安房国へ逃げた。
和田常盛、横山時兼、和田朝盛、岡崎実忠らは戦場を逃れ逐電し、和田合戦は収まりました。

義時は配下の者に由比ガ浜(和田塚付近か?)で義盛以下の首を取って死骸を実検させた。

5月4日 和田常盛、横山時兼が自害、和田合戦終了

戦場を逃れていた和田常盛(42歳)と横山時兼(61歳)は、甲斐国で自殺、その首が鎌倉に到着し、その他の者も含め234もの首が片瀬川に晒された。

和田合戦その後

5月5日 所領の没収、侍所別当の交代

謀叛人の所領、美作・淡路などの守護職、横山庄など主な所領が没収された。
また、侍所別当は義盛の後任に義時が命じられた。

 

和田一族の関連系図

和田合戦にまつわる和田一族 系図

和田合戦関係では、特に泉親平の乱に関わった、義直、義重、胤長。
和田合戦で大活躍した朝比奈義秀、実朝との関係で挟まれた朝盛の系図の把握が重要です。

杉本義宗
 ┣----┳------------------┳
和田義盛  和田義茂               和田義長
 ┣----┳----┳----┳        |
和田常盛  義直   義重   朝比奈義秀    和田胤長
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和田朝盛

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

和田合戦にまつわる和田義盛の姻戚関係系図

和田義盛は、武蔵七党のひとつ、横山党の娘を側室とし姻戚関係を結んでいます。
なので和田合戦では横山党は和田一族側に付きました。

横山考兼(横山党の武士)
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横山時重
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横山時広   横山時重娘=====和田義盛
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横山時兼   横山時広娘=====和田時盛
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※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

また、横山氏は元は小野朝臣姓。小野篁の後裔と考えられています。

横山氏の姻戚関係

         横山考兼
          ┣-------┓
梶原景清=====娘(時重妹)  横山時重
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     梶原景時        横山時広   渋谷高重室   和田義盛
      |           |       |       |
  

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

渋谷高重は、相模国の御家人「渋谷重国(佐々木秀義らを匿った人物)」の次男。
上記の系図によって、渋谷一族や、梶原一族などが和田一族に与した理由も分かってきますね。

和田合戦ゆかりの地

大倉幕府跡

元暦3(1213)年 5月2日
和田義盛は御所を襲います。また、朝夷名三郎義秀は南門を突破し御所を焼き払います。

北条政子(尼御台)、源実朝は事前に大蔵幕府から退去していて無事でした。

法華堂跡

源実朝が御所(大倉幕府)を抜け出して、和田合戦の戦を避けていた場所が法華堂跡です。
現在は白旗神社が建っています。

筋替橋

鶴岡八幡宮の東側から金沢街道へ進む道の始まりの場所に、泉親平が隠れていた付近とされる筋替橋の石碑があります。三浦一族と安達一族が争った宝治合戦ゆかりの地でもあります。

筋替橋|鎌倉御家人合戦 三浦 vs 安達 1247年宝治合戦の地(石碑を読む)

今回は鎌倉の鶴岡八幡宮の東側にある「筋替橋」の石碑を読んでみました。昔に川が流れ…
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和田塚

江ノ電「和田塚駅」を降りて由比ヶ浜方面(南側)へ50mほど向かうと、左手の少し高くなった場所に和田塚があります。

和田一族廃止の屍を埋葬した塚として今日まで伝わっています。

鎌倉散策に役立つ本

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