今回は、江戸城を作ったことで有名な太田道灌(おおたどうかん)の鎌倉ライフに注目してみました。
果たして鎌倉ネタだけでコンテンツが出来上がるんでしょうか(汗)
太田道灌(おおたどうかん)
1432~1486年(約55才)。生まれが結構遅いですね。
室町幕府6代将軍足利義教が、明との国交を回復した時代。鎌倉五山や足利学校で勉強したそうです。
扇谷上杉家の家宰(家長に変わって家政を取り仕切る職責)。頭が切れて優秀だったとの噂。
関東管領上杉家
関東管領上杉家は、○山内家、○犬懸家、宅間家、扇谷家の4家に分かれていて、権力を持っていたのは山内家と犬懸家。
しかし、1416年上杉禅秀の乱(関東管領が鎌倉公方に起こした反乱)以降は
山内家が関東管領職を独占。扇ガ谷は山内家を支える分家的存在に。
で、ここからが鎌倉を離れた話になってくるので簡単に。
鎌倉公方と関東管領のいざこざは室町幕府も巻き混んで続き、鎌倉公方は逃げ出して古河公方になります。
関東管領上杉家側の太田道灌は、古河公方と戦う為に川越城(1457年)を造ります。戦国時代より前に造ってるんですね。
そして1457年、太田道灌が25才の頃に江戸城を建築。若いですねー。
これは古河公方側の有力武将、房総の千葉氏を抑えるためとか言われてます。
そんなこんなで関東管領上杉家のために戦ってきて力を付けすぎてしまって、逆に上杉家に殺されちゃいました。
東光山 英勝寺
1636年、太田道灌の跡に建てられたお寺。現存する鎌倉唯一の尼寺。
開基の英勝院尼は、太田道灌の子孫、太田康資(やすすけ)の娘。徳川家康の寵愛を受けてた側室。
開山は水戸家初代徳川頼房の息女。玉峯清因(ぎょくほうせいいん)
んー、ややこしいけど、太田道灌の子孫が、水戸徳川家と親戚関係になっていったってことですね。
それからも水戸徳川家の姫君が代々住職を務めたこともあり「水戸御殿」とか言われてます。
あ、そしてヒガンバナでも有名なお寺ですね。
太田道灌の墓
英勝寺の敷地ということにはなっていますが、源氏山公園から寿福寺へ抜ける山道の途中に太田道灌の墓があります。
太田道灌一族の流れを整理
ここで、ちょっと時代の流れで太田道灌を見ていきましょうか。
1411年生誕 太田資清(すけきよ)
太田道灌の父。扇谷上杉家の家宰。川越城・江戸城は道灌と一緒に築城。
1432年生誕 太田道灌(どうかん)
今回の主人公。川越城・江戸城築城。
1476年生誕 太田資康(すけやす)
上杉家の内乱から三浦家の妻を室とし、三浦家の援軍に駆け付け北条早雲の軍勢に敗れる。
1498年生誕 太田資高(すけたか)
妻が北条氏綱の娘。祖父道灌を上杉家に殺されてから宿敵の北条氏綱と通じ上杉家から江戸城を奪う。
1531年生誕 太田康資(やすすけ)
後北条に仕える。娘に英勝院。
1561年生誕 太田重正(しげまさ)
妹に英勝院。がいるが謎が多い。ここで太田家は断絶。
なるほど。太田道灌から家系を紐解いていくと、後北条氏や江戸城がらみで徳川家との関係も良く分かりますね。
しかし、京都で起きた応仁の乱もややこしいけど、鎌倉で起きた鎌倉公方vs関東管領の争いも複雑ですね・・・。